古き平安の雅伝える道真の遺品
道明寺天満宮(大阪府藤井寺市) 古きを歩けば特別編・装い重ねて(2)
3センチ四方の金属板に精緻に浮き彫りにされた騎馬の狩人やオシドリ。中央に水晶玉をはめ込み、背景には魚卵のような細粒状の細工「魚々子(ななこ)地」が施してある。表面を覆う黒ずみを透かして銀色に鈍く光る。
■銀メッキ銅板15個を連ねる
この銀装革帯(国宝)は、大阪府藤井寺市の道明寺天満宮に菅原道真の遺品として伝わるものだ。銀メッキを施した銅板を15個取り付けた革ベルトで、束帯で正装した貴人を飾った。9世紀ごろ唐で作られたとみられ、平安時代前期の貴族の装身具の代表例とされる。ベルトはかなり長い。余った分は背中に回してベルトの下を通し、垂らすのが束帯の着こなし方だそうだ。
同天満宮の収蔵品を調査した関西大の高橋隆博教授(美術史)は「パルチアン文様(ペルシャに起源を持つとされる狩猟文)など、正倉院宝物と同じ意匠や技法を用いた超一級の工芸品。金工技術としては当時、最高のものです」と説明する。細工のあまりの精緻さから「実用品ではなく、大事にしまっていた可能性もあります」という。
■象牙製の櫛など6点が国宝に
古代の革ベルトでは他に青金石(ラピスラズリ)やメノウなどを飾った「玉帯」「石帯」もあり、正倉院などに伝わっている。金工細工の装飾付きはあまり残っておらず、貴重という。当時は身分ごとに、ベルトに付ける装飾の材質が異なった。養老令によると、金銀の装飾付きベルトは五位以上の貴族に限られていた。「いずれにせよ、この銀装革帯ほど豪華なベルトを締めることができたのはトップ級の貴族だけ。右大臣にまで昇進した道真にふさわしい品です。天皇から下賜されたものかもしれません」と高橋教授は話す。
同天満宮は、すずりや刀子(とうす)など道真の遺品との伝承を持つ品を革ベルトを含めて7点所蔵し、うち6点が国宝に指定されている。その中で「国内にも古代中国にも類例が無い」(高橋教授)という逸品が、象牙製のくしにべっこうの象眼を施した玳瑁装牙櫛(たいまいそうげのくし)だ。これも9世紀ごろ唐で作られたとされる。象眼の部分は、大小7つの花を彫り、朱や緑の顔料を塗った上で半透明のべっこうをはめ込んでいる。「伏彩色(ふせさいしき)」と呼ばれる技法の一種で、彩りを際立たせる効果を狙ったものだ。「いかにも古代中国風の意匠です」と高橋教授。べっこうはすでにはく落して残っていないが、くしの歯は1本も欠けておらず、優美な姿を今にとどめている。
■中国渡航の道真の祖父が入手?
道真の祖先は古代氏族、土師(はじ)氏で、この一帯を所領としていた。祖先を祭った土師神社や、氏寺の土師寺(道明寺)が同天満宮の始まりとされる。道真が左遷されて太宰府に赴く途中、道明寺にいたおばの覚寿尼を訪ねたとの説話も伝わっている。「全国に約1万2千社ある天満宮の中で、道真公の遺品を蔵しているのはうちだけです」。禰宜(ねぎ)の南坊城光興さんはこう語る。
道真の祖父、清公(きよきみ)は遣唐使に随行して唐に渡ったことがある。国宝となっている品々について、南坊城さんは「いずれも清公が唐で入手して日本に持ち帰ったものを、道真が相続した可能性があります」と推察する。どういった経緯で同天満宮にもたらされたについては、太宰府に下向する際に覚寿尼に預けたとの説や、没後に持ち込まれ神宝としてまつられたとする説があるが、はっきりは分からないという。「道真公は没後間もなく神格化され、ゆかりの品も早くから大事に守り継がれました。そうでなければ子孫が引き続き使い、現代まで残らなかったかもしれません」。南坊城さんはこう話す。
道真の遺品などを収蔵した宝物館は1~3月の25日や、梅祭り(2月10日~3月10日)期間中の週末・祝日などに一般公開される。
(文=編集委員 竹内義治、写真=尾城徹)
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