大火逃れた祇園祭の宝
燈篭町の保昌山(京都市) 古きを歩けば(44)
京都のビジネス街・四条烏丸の交差点から近い場所に、古めかしい木造2階建て建屋が残る。案内板には「燈篭(とうろう)町会所(保昌山=ほうしょうやま)」。燈篭町は祇園祭で巡行する山鉾(やまぼこ)の一つ・保昌山を出す町内。会所の敷地は間口から想像した以上に奥行きがあって、寄り合いのための建屋と稲荷大明神社、土蔵が別棟で建ち、土蔵には保昌山の装飾品や資材が解体・保管されている。
■神体は「和泉式部の夫」平井保昌
山鉾は中国の説話や日本の伝承・謡曲などを題材にした造り物を載せるが、保昌山は和泉式部の夫で武勇に優れ、和歌にも秀でていたと伝わる平井保昌を神体(人形)としている。巡行では保昌が和泉式部のために紫宸殿(ししんでん)の紅梅を手折ってささげる姿を飾る。この山の自慢は織物類の装飾品。中国・前漢時代の外交官、張騫(ちょうけん)と虎、霊験のある巨霊人と白鳳の刺しゅうを配した左右の胴懸(どうかけ)や前漢時代の名臣・蘇武を刺しゅうした前懸(まえかけ)は、江戸中期の画家・円山応挙の下絵を基に製作されたものだ。「うちのは確実に応挙が手掛けたという資料がある。応挙が燈篭町近くに住んでいた縁で頼めたと伝わっています」と保昌山保存会の出島昭男理事長。また、七福神の福禄寿を配した見送も豪華だ。
■山鉾の維持は火災との闘い
保昌の神体も古いもので、胴は江戸後期の寛政年間の作という。会所の土蔵には傷んだために今は使わなくなった装飾品も保管されている。保昌の神体(人形)にかつて着せた足利幕府の紋の付いた鎧(よろい)や、応挙下絵の胴懸以前に用いられていた舶来の胴懸などだ。これらは山の装飾品の変遷を伝え、製作時の技術水準を知る上でも貴重だ。京都は度々、大火に見舞われたが、「先人は火が出たとなると自宅そっちのけで山に関わる物を持って逃げた。この結果、1500年に作られた保昌の神体の頭などが今に伝わっているんです」と出島理事長。現在の土蔵(1808年築)にしても柱の一部に焦げた跡があり、山鉾の維持は火災との闘いだったことをうかがわせる。
祇園祭は869年、疫神のたたりをはらうために行われた祭りを起源として長い歴史を誇るだけに、山鉾がいつ今の構造・装飾に定まったかは明らかでないが、応仁の乱の後の有力商人の台頭に伴って豪華絢爛(けんらん)になったとされる。装飾品は傷むと復元され、その時に専門家が製作技法や素材にどのような物が用いられているかなどを調査している。例えば、保昌山の平井保昌の神体(人形)に着ける衣装「引敷(ひっしき)」。引敷は尻敷き用として腰に下げる敷物で、保昌山のものは表が雲龍文様、裏は虎の皮文様になっているが、縁には鯨のヒゲが使われていた。今の時代、鯨のヒゲは入手が困難なため、復元では代わりにグラスファイバーを用い、ほかは元のもの通りに製作されたという。
■「隣の山には負けていない」の気持ち
祇園祭の時期を迎えるとこうした装飾品や資材を組み立てて巡行するが、とにかく長い歴史だけに時には間違いも起きるらしい。出島理事長によると「引敷」が過去には一時、ほろと間違えられて保昌の神体(人形)の腰ではなく肩に着けて巡行していたという。出島理事長は「こうした笑い話のようなことが起きたのは装飾品をよく知らないため。後継者に正しく伝えていくことが何よりも大事」と話す。
保昌山保存会の理事長を務めて30年という出島さんに最後に山を支える町衆としての祇園祭の山鉾巡行の楽しみを聞くと、「自慢の装飾品を披露できるのが一番。巡行は『隣りの山には負けてない。見比べて』という気持ち」。この一言に各山鉾が豪華になった理由が如実に表されているように思えた。
(文=編集委員 小橋弘之、写真=伊藤航)
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