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歴史博士

2013/4/2

歴史博士

ロシア使節とわたり合った幕末の俊英

桜並木は現在、1000本ほどが約5キロにわたって堤上に伸びている

聖謨は知性と誠実さを兼ね備えた俊英で、幕末の緊迫期に下級幕吏から勘定奉行にまで栄進。国境画定を迫るロシア使節プチャーチンとわたり合い、難問を巧みに処理して日露和親条約を締結したことで知られる。戊辰戦争での江戸開城に先立ち、幕府に殉じて短銃で自ら命を絶った彼について小説「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」で描いた吉村昭は、その後書きで「幕末に閃光(せんこう)のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物」と記している。

普請奉行を務めていた聖謨が奈良奉行に任ぜられたのは、彼が外交の表舞台に立つ約7年前の弘化3(1846)年。老中水野忠邦の失脚のあおりを受けて多くの幕府重職が左遷・解任された時期で、彼自身「左遷」と認識していたようだが、赴任すると精力的に職務に取りかかった。

桜はいずれも枝が大きく川面に張り出し、花のトンネルを形づくっている

博徒の取り締まりをはじめとする犯罪対策や裁判事務の迅速化を進める一方、官民の拠出による貧民・病人の救済事業や、墨や武具など地場産業の振興にも注力。変わったところでは陵墓に関心を持ち、与力らを使って資料を渉猟して、所在不明とされた神武天皇陵に関する論考を著したり、盗掘者を取り締まったりしている。

そんな彼を奈良の人々は「五泣百笑の奉行」と称し、慕った。泣く「五」とは博徒、厳しく監督される役人、裁判期間が短縮化されたために滞在客が減った公事宿(裁判関連の宿泊施設)などを指し、笑う「百」とは百姓を指す。5年余りにわたった奈良奉行職を離れて奈良をたつ時、何百人もが涙ながらに見送ったという。

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