散りぎわの美、清正の名樹
古きを歩けば・花ものがたり 地蔵院の五色八重散椿(京都市)

椿(つばき)は桜と咲き競う春の花ながら、首からボトリと落ちる様が武士の世では不吉とされた。だが、加藤清正が豊臣秀吉のために朝鮮から持ち帰ったとされる、京都市北区の地蔵院(椿寺)の八重椿は名樹とうたわれ、珍重された。花びらがひとひらずつ、はらりと散るためだ。
■北野大茶会の際に寄進受けた寺伝も

寺伝では、秀吉が1587年の北野大茶会の際に地蔵院に寄った縁で、後に八重椿を寺に寄進したとされる。樹齢約400年を数えた初代は1983年に惜しくも枯れたが、樹高4メートル、枝の周囲は29メートルにも及んだ。枝分けした2代目が現在本堂前にあり、樹齢120年を数える。
1つの木から白、赤、ピンク、白と赤の絞りなどの八重の花が咲き、「五色八重散椿」と呼ばれる。散り落ちた花びらは、地面を覆う苔(こけ)の緑と美しい対比を見せる。「初代は私が寺に来てすぐに枯れたので記憶もかすかだが、ピンクの花も今よりもう少し赤みがかっていたように思う」と伊藤史郎住職は振り返る。
■土門拳ら多くの芸術家魅了した初代

もっとも、木の下には首ごと落ちた花もちらほら。「がくと花の大きさのバランスからか、首から落ちるものもある。鳥がついばんで落ちる時もある」と伊藤住職は苦笑して打ち明ける。
環境が激変するなか、貴重な花を次代に残す苦労は並大抵ではない。初代は、樹勢が衰えてから土を入れ替えるなどしたが、復活はならなかった。伊藤住職は「400年という樹齢とどちらが枯死の主因かはわからないが、隣接道路の拡張や下水道工事の影響などもあり地下水脈の流れが悪くなったのでは」とみる。
それでも散りざまの美しさは多くの芸術家を魅了し、在りし日の初代をしのばせるよすがとなっている。写真家の土門拳が写し撮ったほか、日本画の大家、速水御舟が29年に描いた2曲1双の屏風絵「名樹散椿」は、昭和期の作品で初めて国の重要文化財に指定された。

落ち着いた金地を背景に、老椿はのたうつ大蛇のように枝を縦横に伸ばしている。作品を所蔵する山種美術館(東京都渋谷区)の山崎妙子館長は「伝説的な古木には特殊な崇高美や画的美感がその姿に認識されるに違いないと考えていた、と御舟は美術雑誌に書いている」と解説する。
当初は桜と合わせて同じ画面で描こうとしていたが、朱色の良い絵の具が手に入ったこともあり、椿を単独で描くことを決めたようだという。御舟の眼鏡にかなう朱色の絵の具がなければ、椿の名画は違った趣になっていたかもしれない。
■速水御舟が用いた金箔の「まきつぶし」

「名樹散椿」をめぐってはマイクロスコープを使った調査で、鮮やかな花の色を受け止める背景の金地は金箔をそのまま貼ったのではなく、細かく砕いたうえで画面を覆う「まきつぶし」という手法を採用していることが分かった。手間も費用も掛かるものの「しっとり落ち着いて、てからない金色の地になっている」という。琳派を強く意識したと思われる作品はこうして誕生した。

地蔵院の境内には赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援したとされる天野屋利兵衛のものとされる墓も残り、御舟はここから椿のデッサンをしたという。ただ、そもそも実在したのかどうかという議論もある人の墓をめぐり「訪れる人がみな忠臣蔵のせりふを口にするのがおかしかったと、御舟は記している」と山崎館長は笑う。
伝承にあやどられた五色八重散椿は、今年は4月下旬まで咲いては散る姿を楽しめそうという。山種美術館では6月2日まで名樹散椿を展示中だ。
(文=中川竜、写真=玉井良幸)
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