東京湾にかかる巨大な橋、東京ゲートブリッジが2月12日、開通する。早くも新名所として話題を集めているが、東京にはまだまだ、隠れた「名橋」がある。大きい橋、小さい橋、歴史ある古い橋……。身近な場所にひっそりたたずむ東京の名橋を巡ってみた。
江戸時代、二重橋は二重構造の橋だった
東京で一番有名な橋はどこか。日本橋、永代橋、レインボーブリッジ……。いくつか名前が挙がる中で、必ず候補に入ってくるのが二重橋だ。
皇居正門前にある二重橋は、一般参賀のときに目にする橋。修学旅行や東京観光の定番でもある。実際に足を運んでみると、外国人観光客が大勢、写真を撮っていた。
この二重橋、観光案内や絵はがきなどではよく「手前と奥、2つある橋が二重に見えるから」「手前の石造りの眼鏡橋が堀の水面に映って二重に見えるから」「手前の眼鏡橋が横に二重に見えるから」などと説明される。しかし、これらの説明は正確ではない。実は現在の二重橋は二重ではないのだ。どういうことか。
千代田区観光協会によると、皇居正門前にある2つの橋のうち、広場からみて奥にある鉄橋が二重橋だという。手前の石橋は二重橋ではない。ではなぜこの鉄橋を二重橋と呼ぶのだろうか。
二重橋はもともと、江戸時代に架けられた。橋の位置が高かったので、下に土台となる丸太を組み、その上に橋を重ねた。その姿が二重に橋が架かったように見えたことから、二重橋の呼び名がついたという。1888年(明治21年)に鉄橋となり、1964年(昭和39年)に現在の姿となった。
ちなみに、二重橋の正式名称は「正門鉄橋」。手前の石橋は「正門石橋」だという。
二重橋からの出土物を巡り論争も
1925年(大正14年)には二重橋を巡り大論争が巻き起こった。石垣の修復工事の現場で、何体もの人骨が出てきたのだ。皇居のシンボルともいえる場所からの出土とあって、大騒ぎとなった。
当時の経緯をまとめた『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生)によると、当時有力とされたのが「人柱説」で、南方熊楠らが主張した。宮内省(現在の宮内庁)は「江戸城の築城時に何らかの事情で埋められたのではないか」との見解を示したという。
鈴木氏によると、現在では人柱ではないとの説が有力だという。徳川家康が移ったころの江戸城はまだ小さく、現在の二重橋付近には寺があった。家康の命で移転したものの、墓地に埋葬した人骨はそのままだったため、それが出てきたのだ。江戸城周辺には寺が多く、時々都内の地下から人骨が見つかるのは、同様の事情があるのだという。