邪馬台国支えた? 海を見晴らす鍛冶屋の村
五斗長垣内遺跡(兵庫県淡路市) 古きを歩けば(40)
淡路島北部の山あい、瀬戸内海を見晴らす小高い尾根上に、弥生時代では最大規模とされる鉄器工房群の遺跡がある。五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡だ。地域住民が力を合わせて復元した竪穴建物が点在しており、茅葺(かやぶ)き屋根のかなたに水平線が広がって波頭がきらめく光景を眺めることができる。
■鉄鍛治の炉跡や敲石などを発見
棚田が広がる山裾をどんどん上ってゆくと、ようやく復元された竪穴建物の姿が見えてきた。遺跡の標高は200メートル。見晴らしがすばらしく、海風がさわやかだ。「海岸線からは約3キロ離れています。これより内陸だと山が険しく住めない、ぎりぎりの場所です」。淡路市教育委員会の伊藤宏幸さんが教えてくれた。
2007~08年度、水田整備に伴う発掘で計23棟の建物跡が見つかった。うち12棟で鉄鍛冶の炉跡や台石、敲石(たたきいし)などの道具類、鉄のおのや矢じり、鉄の破片といった遺構や遺物を発見。最大の建物跡は直径10.5メートルで、中に10~11基の鍛冶炉が並んでいた。
遺跡周囲には今は棚田が広がっているが、「弥生時代には水田に適さない地形だったと思われます」と伊藤さんは話す。実際、発掘では水田耕作の痕跡は見つかっていない。
■鉄の文化普及解明の手がかりに
集落が存続したのは弥生時代後期初頭(1世紀中ごろ)から後期末(2世紀末)まで。当初は石器を作っていたが鉄器に代わり、百数十年間にわたって連綿と鉄器生産が続いた形跡があった。集落内に占める鉄器工房の比率の高さは類例がなく、「まさに鍛冶屋の村。1つの職業に特化した集落が当時、成立していた可能性があります」と石野博信・兵庫県立考古博物館館長は話す。
弥生時代、鉄の原料は朝鮮半島や大陸から持ち込まれ、入手は容易ではなかった。鉄器工房跡は半島に近い九州などでは見つかっているが、近畿は"空白地域"だった。国内最大規模とされる鉄器工房跡が淡路島で見つかり、鉄の文化や技術が日本国内でどう普及したかを解明する重要な手がかりになると注目されている。五斗長垣内遺跡は邪馬台国の女王・卑弥呼の即位につながる「倭国(わこく)大乱」の時期と重なり、邪馬台国論争への影響を指摘する声もある。
五斗長垣内で生産した鉄器類は、この集落だけで使用したとは考えられず、どこかへ運び出されたとみられる。石野館長は「各地の出土遺物と見比べると、畿内ではなく岡山や香川などに運ばれたように思える。今後の研究課題だ」と指摘する。
ただ、謎も残る。鉄の原料や加工品を流通させるなら、なぜ海岸部など交通の便の良い場所に集落を置かなかったのか。実は瀬戸内海沿岸では、同じ弥生後期の集落跡が山や丘陵の上で多数見つかっている。淡路島北部でもそれまで平野部にあった集落が弥生後期になると山あいに移り、数も爆発的に増加する。「高地性集落」と呼ばれ、山城のように軍事的な性格が強いとされているが、「周壕(ごう)など防御施設は見あたりません。これまでの概念で考えてよいのか、検討が必要です」と伊藤さんは話す。
■隣接の水田で古代米
この遺跡のもう一つの特徴は、地元による熱心な保存の取り組みだ。遺跡の価値や保存方法について学習会や検討会を重ね、当時の鉄鍛冶作業を復元する体験プログラムも実施。来年度から始まる公園整備に先立ち、すでに住民らの手で案内板が建てられ、竪穴建物3棟も復元されるなど仮整備が進んでいる。多い時は月に5~6回、遺跡を訪れる小中学校の歴史学習や様々な団体による見学の案内役も、地元住民らが務めている。
遺跡は当初、発掘調査後は水田に戻す予定だったという。「偉い先生が来て『貴重な遺跡だ』と教えてくれましたが、最初はよく分かりませんでした」。五斗長まちづくり協議会の高田一民さんはこう振り返る。風向きが変わったのは発掘の現地説明会だ。「全国から約900人も集まり、遺跡の大切さが皆に印象づけられました」。その後、地元の意見が「保存」でまとまるのに時間はかからなかったという。
従来は別の場所で開いていた毎年恒例の地区のイベントも舞台を遺跡に移し、今や地域交流の中心になっている。28日には遺跡に隣接した水田で育てた古代米を販売したり、様々な古代体験ブースを設けたりする「遺跡収穫祭」を開く予定だ。「遺跡は、ここに祖先がいた証しです」と高田さんは話す。
遺跡は9月、国史跡に指定された。発見から5年目のスピード指定について「地元の熱意にあおられたのでは」と石野館長はほほ笑む。
(文=編集委員 竹内義治、写真=尾城徹雄)
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