ディーラー=男、誰が決めた 金融の最前線に挑む
シティグループ証券のベラ恵さん(30)は、英独など欧州各国が発行する国債を売買する欧州債ディーラーだ。
フランス人の父とのハーフ、パリと米国の大学で金融を学び、日仏英の3カ国語を話す。2007年に欧州のデクシア銀行に入り、08年に東京支店に異動したが、直後にリーマン・ショックで支店は閉鎖、仕事を失った。
茨城県で英語教師の職を得たが、大学で学んだことを生かしたいと1年で辞め、ディーラーを募集していたシティグループに飛び込んだ。
ベラさんの出社は朝7時。東京市場の開いている9時から15時まで息を抜けない。昼食は自席でパスタかサンドイッチ、トイレにも走って行く。チーム唯一の女性ディーラーで数十億円の資金を任されている。
17時以降も仕事は終わらない。日本時間の夕方からが欧州債のコアタイムだ。チームの本拠地、ロンドン支店と連絡を取り、市場の動きに目を光らせる。米国で大きな経済指標の発表があれば深夜まで待機する。
技術者の父、通訳の母から「女性も仕事が一番大事。結婚のチャンスなど後からついてくる」と言われている。いずれはロンドンか米国債の本場、ニューヨークで働きたいと思っている。
20代から30代前半までは若さと勢いで突っ走れるが、ディーラーという仕事は常にリスクと向き合う。長くやっていれば大きな損失を抱え込む日もある。ディーラーを20年以上続けてきた竹内由紀子さん(47)にも、そんな日があった。
大学卒業後、1989年に三和銀行に入った。プロジェクト・ファイナンスなど華やかなイメージの国際金融に憧れたが、配属先は国債を売買する市場営業部。「国際のはずが国債か」と少しがっかりしたが、折しも日銀がバブル退治に乗り出し、国債相場が大きく動いていた時期。「1日で勝負がつく。勝ち負けがはっきりしている」(竹内さん)仕事の魅力に取り付かれた。
竹内さんに試練が訪れたのは、ドイツ系の証券会社に移り、扱う金額も増えた30代後半だった。相場を読み違え、1日で数億円の損失を出してしまった。
生涯収入に匹敵する大きな損失。翌日は会社に行きたくなかった。正直、「大丈夫?」と周囲から気遣ってほしかったが、そんな声がかかるはずもない。「しょうがないよな」と開き直るしかなかった。
2006年に大和証券グループに移籍、国債ディーラーのトップも務めた。男性の部下も当然いる。最近ようやく、こんな風に思えるようになった。「性別も経歴も関係ない。たとえ失敗しても、プロとして自分の仕事をやるだけだ」と。
米モルガン銀行のディーラーとして巨額の利益をあげ、伝説のディーラーと呼ばれた藤巻健史さんは、「この仕事は損失というストレスが付き物。いかにうまくストレスを発散できるかがポイント」と語る。
藤巻さんも1日で30億円の損失を出したことがあり、「そんな日は大酒飲んで酔っぱらって忘れるしかなかった。こういうストレス発散方法が女性は取りにくいかも」と指摘する。
こうした課題に、自分なりの答を出したのが、債券や為替売買の世界に30年近く身を置いた津金真理子さん(54)だ。
大卒後、数学教師を経て、英国で修士号を取得。1987年に安田信託銀行へ入り、マーケットの世界に身を投じた。得意の数理分析を生かし、年金の巨額資金を動かした。多い時は千億円を超える資金を任されたこともあったという。
外資系金融機関に転じた40代のころは、帰宅は深夜、土日も出勤という日々が続いた。「子どもがいないので何とかなったが、主婦業はまったくできなかった」(津金さん)と振り返る。
今は金を中心にした市場の調査・研究機関であるワールド・ゴールド・カウンシルでアナリストとして働く。30代から40代にかけて、日々市場で勝負し続けた経験を生かしたリポートは.ひと味違うと評判で、今年8月、女性として初めて日本証券アナリスト協会の理事に選ばれた。
津金さんは後輩の女性ディーラーたちにこんなメッセージを贈る。「男になる必要はない」
男性ディーラーとすべて同じ行動を取ることはない。ディーラーに損失が付き物なら、きめ細やかなリスク管理で、それを軽減すればいい。「家計簿を付けるような感覚」(津金さん)をディーリングの世界にいかすやり方もある。
肩ひじ張って男性職場に入ったわけではない。好きで選んだ道に、たまたま女性が一人もいなかっただけだ。ベラさんも竹内さんもそうだった。男性にはわからない苦労もあるが、津金さんがそうだったように、積み重ねた経験は、将来きっと花開くはずだ。
(編集委員 鈴木亮)
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