食べて描いた2万5000食 23年間の「食記」を本に
「シノダ課長のごはん絵日記」
今週日曜日。「シノダ課長」こと篠田直樹さん(50)と名古屋駅で待ち合わせ、お気に入りのそば店「春風荘」に入った。
店のお薦めという天ぷらせいろを注文。篠田さんは食べながら右手の指先をこすり合わせている。何かと思えば、人さし指で親指に絵を描いているのだという。「指を動かすことで脳に焼き付く」。食器の模様も丹念にチェックし、「あぁ今日もおいしかった。良い絵が描けそうだ」と満足そうに店を後にした。
緻密なイラスト、水性ペンで彩り
電車で岐阜市の自宅に戻ると、一目散に自分の書斎へ。美術教員だった祖父譲りの机で、真っ白な大学ノートを開いて黒のペンを手に取った。下書きはしない。日本酒のとっくり、前菜、そば、天ぷらと黙々と線を引いていく。
最後に22色の水性ペンで彩りを加える。時折2色のペン先を混ぜ合わせたり水をにじませたりしながら、微妙な濃淡を表現する。40分後にはノート1ページにわたる緻密なイラストで、一緒に食べたばかりの昼食が再現された。
篠田さんはこんな風にこれまで23年間、ほぼ全食にあたる約2万5千食を描き記してきた。その数はノート44冊分にも及ぶ。その膨大な「食記」の始まりは1990年夏、福岡市への転勤を機に「ご当地グルメを記録しよう」と思ったのがきっかけだったという。
仕事で海外に行くことも多いが、マクドナルドのハンバーガーや吉野家の牛丼なども多く登場。緻密なイラストの隙間にはメニューの感想やその日の出来事を記す。たまに「金を返してほしいほどまずかった」など辛辣な言葉も並ぶが、その丸い文字は篠田さんの人生や家族の歴史と重なる。
「1991年3月11日。天ぷらそば。博多区役所で婚姻届を出した帰りに、カウンター席で食べた」
「93年6月26日。赤飯。初めて我が子を抱いた日の赤飯はまた格別だ」
「12年3月24日。焼き肉。長女の大学と次女の高校の合格祝い」
「12年9月21日。1本25歳と見立てて2本のローソクをともしたデザート。いよいよ50歳」
食事日記を始めてからは社員旅行にもノートを持っていくという徹底ぶりに、「周りの人はだいたいあきれている」と苦笑いする。「でも料理は食材に再び命を吹き込む。それを記録することで命への感謝にもなる」と思っている。
23年の間に、デジカメやカメラ付き携帯電話が世に登場しても、手描きにこだわった。記者が携帯で昼食の写真を撮ると、「若い子は食べるよりもネットで自慢するのが目的に見える。ちゃんと味わってるのかな」とちくり。「頭と舌と胃で記憶する」篠田さんだからこそ、味わいのある絵を生み出せるのだろう。
温かな絵を通して透けて見える篠田さんの人生物語が、多くの読者をひき付けている。
初版8000部、2週間で重版
「こんなに変わった人は他にいないと思った」。ポプラ社一般書編集局の鎌田怜子さん(33)は、この本を出版しようと思い立った理由をこう語る。1年前、サラリーマンの昼食を紹介するテレビ番組で篠田さんを見て「このオジサン、面白い」とときめいた。
画面に映っていた名古屋市内の店をインターネットで探し当て、手紙を書いた。店主がその手紙を篠田さんに取り次いで話し合いがスタート。出版にこぎつけた。無名の新人としては異例の8千部でスタートした初版は2週間で完売。アマゾンなどインターネットの在庫も品薄が続き、さっそく重版が決まった。
(中藤玲)
[日経MJ2013年6月7日付]
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