古都の防火、高低差生かす本願寺水道(京都市)古きを歩けば(35)

2012/6/26
かつて本願寺水道を使って琵琶湖の水を取り入れていた東本願寺の堀(京都市下京区)

京都市内に「本願寺水道」と呼ばれる水道が残っている。この水道は明治時代後半の1897年、防火用水確保のために作られ、琵琶湖疎水の水を蹴上(東山区)付近で取り込み、東本願寺(下京区)までの市街地約4.6キロに鋳鉄管(直径約30センチ)を埋設して引いていた。老朽化で2008年に停水したが、東本願寺の堀などの水を補うのにも使われ、さらに防火用水のバックアップの役割も担っていた。いまも「地形をうまく利用した画期的な設備」として評価する声が多く、市民らの団体によって毎年1回、水道管が埋設された道をたどる催しが行われている。

動力を頼らずに通水

東本願寺が見学用に残している本願寺水道の水道管

同水道が評価される一番の理由は、蹴上付近と東本願寺の高低差約50メートルを生かし、ポンプなどの動力に頼らずに水圧だけで通水できたことにある。もともとは本願寺境内に網の目状に張り巡らした配管の先に放水銃や消火栓を設け、バルブを開けば放水銃などから伽藍(がらん)に向けて水が吹き出す仕組みになっていた。また、東本願寺の堀と、途中にある同寺の別邸「渉成園」の池の水を補うのにも用いられていた。


明治時代に再建された東本願寺の御影堂

設計者は琵琶湖疎水と同じ田辺朔郎。埋設した鋳鉄管はフランス製で、工事に延べ約26万人が携わった。総工費は14万4303円。「当時の京都府の年間予算の25パーセントに相当する」(東本願寺)といい、この工費を同寺が独力でまかなった。そうまでして水道を引いたのは、同寺は江戸時代だけで4度の大火に遭い、「明治時代に御影堂などを再建するに当たっては、防火設備が欠かせないとの強い思いがあった」(同寺)からだ。

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