地下街レトロ対決 消えた神田、現役最古は…東京ふしぎ探検隊(11)

「三原橋地下街」は橋桁の下

大正時代にかけられた三原橋。下を流れるのが三十間堀川(中央区立京橋図書館所蔵の「建築写真類聚 橋梁巻1-三原橋-」より)

「昭和通りと中央通りの間には、かつて三十間堀川という運河が流れていたんです」。地域の歴史に詳しい、中央区立京橋図書館地域資料室の菅原健二さんが教えてくれた。三原橋地下街がある場所にはその名も三原橋という橋がかかっていて、その上を都電が走っていた。終戦後、戦災で生じたがれきの処分先として三十間堀川が埋め立てられたが、三原橋は撤去されずに残ったという。

ちょうどそのころ、銀座では露天商が道路を占拠する問題が持ち上がっていた。そこで東京都は露天商を商業ビルなどに移転させ、同時に三原橋周辺の店を収用するために、地下街を造ったという。1952(昭和27)年のことで、これが戦後第1号の地下街となった。

ちなみに、地下街とその上にある商業ビルは土浦亀城という著名な建築家が手掛けた。土浦はフランク・ロイド・ライトの弟子。その妻、信は吉野作造の長女で、女性初の建築家としても知られる。

銀座の地下通路にある段差。この上に三原橋地下街がある

古地図などに詳しい地図編集工房(横浜市)の長谷川敏雄さんは「地下街の設計図を見ると、橋という邪魔者をどうするか、苦労の跡がにじんでいる」と話す。「地下街の下にある地下通路に、1カ所だけ天井が低くなっている場所があります。その上には映画館があるのですが、上を橋桁で押さえつけられている分、下を掘ることで空間を確保したんです」。確かに銀座駅と東銀座駅をつなぐ地下通路を歩いていると、1カ所、奇妙な段差がある。そんな事情があったとは驚きだ。

「幻の地下街」の真相

三原橋地下街の上にある道路。かつてここに川が流れていた。正面の建物の下にも、地下街への階段がある

その三原橋の橋桁、本当は1964(昭和39)年の地下鉄日比谷線の開通に伴い撤去されるはずだった。「東京地下鉄道日比谷線建設史」によると、地下鉄建設を認可する際、当時の建設大臣名で「三原橋付近の工事の実施に当たっては、三原橋橋梁を撤去すること」と命じている。しかし橋桁は今も残る。なぜか。東京都建設局に問い合わせたところ、「構造上逼迫していないので……」との答えが返ってきた。

橋桁が撤去されなかったことは、思わぬ波紋を広げた。日比谷線と地下通路の間に、奇妙な空間が残ってしまったのだ。それは時に「幻の地下街」と呼ばれ、都市伝説と化している。

三原橋地下街の入り口。建築家、土浦亀城が設計した丸みを帯びた建物は、当時としては斬新だった

「日比谷線建設史」にこんな記述がある。「地下2階は東京都で将来三原橋を撤去するとき橋下および橋台敷き付近に居を構えている諸店舗を移転収用するための施設として使用」。つまり、将来の橋桁撤去をにらんで地下街店舗の一時的な移転先として、日比谷線と地下通路の間に空間を確保した。ところが、消防法改正などによりその空間が地下街としては使えなくなったため、そのまま残ってしまった――。これが「幻の地下街」の真相のようだ。現在は封鎖されていて、入ることはできない。

歩行者の誘導、駐車場の付帯施設、鉄道の副業、露天商の整理。地下街が生まれた背景は様々だ。その過程をつぶさに見ると、時代の事情が透けて見えて面白い。

(電子報道部 河尻定)

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