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朝・夕刊の「W」

杉野芳子 己の感性信じ、時代切り開く ヒロインは強し(木内昇)

2014/3/23

その原点には「自立」という意識があったという。女手ひとつで育ててくれた母を見ていたからかもしれない。祖父に「偉くなっておくれ」と言われたためでもあろう。ただ、杉野芳子の自立の過程には頑なさや気負いは薄い。生涯の仕事を素直に欲する、希望的な旅に見えるのだ。

■洋裁塾を開校 1892~1978年。千葉県に生まれる。幼い頃両親が離婚。大正2年(1913年)、渡米し、洋装を学ぶ。現地で結婚。帰国後の大正15年(1926年)、東京・芝にドレスメーカースクール開校。のち、ドレスメーカー女学院と名を変え、夫・繁一が理事長に。ニューヨークとパリでデザインを再び学び、戦後、財団法人杉野学園を立ち上げる。終戦2年目にはいち早くショー形式の作品発表会を行っている。

千葉高女卒業後、鉄道省初の女性職員を経て、小学校教員となった。待遇には満足だったが「一生をかける仕事は他にあるはず」という考えが拭えない。そこで芳子はなんとアメリカに渡る決心をする。海外旅行が夢のまた夢だった大正二年。しかも結婚適齢期の女性が渡米するのだから、当時の常識に照らせば向こう見ずには違いない。けれどかの地で洋裁の技術、さらに伴侶となる男性にも出会えたのだから、彼女の判断は結果的に正しかったのだ。

約七年のアメリカ滞在を経て、建築士の夫・繁一と共に帰国した芳子だが、主婦業に専念したのは二年程だった。関東大震災を経験し、和服の袖や裾が緊急時に動きづらいことを実感。洋装を広めねばと、洋裁塾の構想を抱くようになる。とはいえ当時は洋裁なる言葉すらなく「ミシン裁縫」と呼ばれていた時代。その上、妻が働けば夫の収入が低いからだと世間に見なされ体面にかかわるという窮屈な時代でもあった。

洋行帰りで職業婦人に理解あるはずの繁一も、郷にいれば郷に従えで苦い顔をする。それを必死に説得し、「ドレスメーカースクール」開校までこぎつけるも、集まった生徒はたった三人。これでは教室の部屋代も払えない。やむなく自宅を教場にし、細々と授業をするよりなかった。

仮縫いを重ね、体型に合った洋服を仕立てる芳子の授業はその後、徐々に評判となった。生徒も増加の一途をたどる。ついに芳子ひとりの手に負えず、夫が理事長として学校運営を担うまでに。妻の仕事に反対だった繁一だが手を差し伸べたのは、彼が新しい感性と寛容さを持ち合わせていたがゆえのことだろう。

だが順調な学校経営とは裏腹に時代は太平洋戦争へ突入する。敵国語である校名は杉野女学院と変えざるを得ず、校舎も国に接収された。それでも芳子は分校舎で洋裁を教えるが、この建物も空襲で焼失してしまう。今日の食糧にも事欠く日々、もはや学校どころではないと諦めた。ところが終戦の一週間後、生徒がやって来たのだ。「先生、学校再開はいつですか?」

戦後復興期の人々のたくましさが胸に染みるエピソードだ。でも、芳子が単に時流に迎合した指導者だったら生徒は訪ねてこなかったのではないか。常に自分が心からいいと思ったものを時流に翻弄されず真摯に教えてきたからこそ、逆境の折の希望になり得たように思う。

データ的裏付けに頼るばかりでなく、地道な勉強とその過程で培った実感をもって生みなすものこそが、時代を切り開き、時に苦しい時世をはねのけ、時代を超えてゆく――彼女が貫いた信念はそれを証している気がする。

[日本経済新聞朝刊女性面2014年3月22日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。

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