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幾松 旦那を陰から支えた「いい女」

ヒロインは強し(木内昇)

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NIKKEI STYLE

大変な美貌の持ち主である。彼女がお座敷にあがると、男たちは一様に息を呑んだという。幾松という芸妓の名は、幕末の京で広く聞こえていた。新たな世を作らんと奔走していた志士たちにとっても、彼女は憧れの的だった。

若狭小浜藩士の家に生まれるも、幼い頃に一家が離散。その後養女に引き取られた先も貧しく、幾松は実の母と養父母を養うため舞妓になった。踊りも達者、加えて抜きん出た美貌である。評判の人気芸妓になるのは当然のなりゆきだったのだろう。

この幾松に惚れ抜いた男がいる。長州の桂小五郎、のちの木戸孝允である。あまたのライバルを押しのけ、見事幾松を射止めて落籍させるのだが、彼女はその後も芸妓を続ける。結婚後も仕事を続けてキャリアを積む、といった現代的な理由からではない。桂のために、座敷にあがる勤王家、佐幕派、諸藩士から情報収集するのが最たる目的であったらしい。

当時長州は、幕府が特に警戒している藩だった。新選組が、勤王家の集まりに踏み込んだ池田屋事件で同藩の人間が斬られると、長州は京へと軍を送り込み、御所を守る薩摩、会津の軍と衝突する。結果、京の大半を焼き尽くす戦を引き起こす。俗に言う蛤御門の変である。

このさなか、桂はなにをしたか。危ういところで池田屋の難を逃れ、長州の暴発を止める努力はした。が、あとは物乞いに化けて二条大橋近辺に潜んでいた。幾松が毎夜握り飯を届けて助けたのは有名な話。この後彼はひっそり但馬国出石に落ち、広江孝助と名を変えて筵(むしろ)売りの商人になりすましている。

長州が多くの犠牲を払って都から潰走し、久坂玄瑞や吉田稔麿といった英才まで命を落としたことを思えば、桂の行動は狡猾にも映る。しかも出石で商家の娘とねんごろになったという噂もあって、これが夫や恋人であれば幻滅しそうな局面である。

だが幾松は彼を信じ続けた。「桂を呼び戻してほしい」という長州藩の依頼に、自らも新選組に見張られている身であるのに、彼女は危険覚悟で出石に向かい、無事桂を帰藩させるのである。

それほど桂に心酔していた、ともいえる。確かに理知的で垢抜け、剣の腕も立ち、整った顔立ちの桂は、得難い存在だったろう。ただ「恋は盲目」的一途さや、出世を見込んだ打算と違い、男の身勝手を受け止めて淡々とサポートに徹していた向きがある。相手がどんな状況であれ、自分は凛としてなすべき務めを果たす。が、己の働きを恩に着せもせず、維新後、木戸孝允夫人になった後もむやみとしゃしゃり出たりしない。

まさに「いい女」なのだが、といって男にとって「都合のいい女」ではないのだ。若い時分から、鎧を脱ぎ捨てお座敷でくつろぐ男を見てきた彼女には、「女は男に従うもの」という因循姑息な観念ではなく、「男は女が守ってやらねばならない弱い者」という一段上の目線と余裕が身についていたような気がする。

[日本経済新聞朝刊女性面2013年12月14日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。

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