己を奮い立たせ、立ち向かう　林芙美子

林芙美子の生い立ちは、恵まれていたとは言いがたい。行商人の家に生まれるも、8歳のとき両親が離婚。20歳も年下の番頭と一緒になった母に付いて北九州を転々とする。貧しく、小学校にもろくに通うことのできない暮らし。が、彼女は旅商いを手伝うかたわら本を読み漁り、当時まだまだ進学率の低かった高等女学校へ入学する。夜間工場で働き、自力で学資を稼いで勉学に励むのだ。

晴れて女学校を卒業し、これまでとは違う明るい未来が待っている……はずだったのに、苦難はなおも続く。それまで住んでいた尾道から恋人を頼って上京するも、彼は芙美子を置いて早々に帰郷してしまった。親しい友人もいない東京で女ひとり。食いつなぐためになんでもやった。セルロイド工場の女工、カフェーの女給、毛布問屋の店員、夜店の売り子まで。職を転々とし、男の家に転がり込み、綱渡りのように日を送る。文章を書きたい、それを世に出したいという思いはある。でも果たしてそんな日が自分に訪れるのかと、彼女は常に不安である。頑張っても報われない。器量にも才能にも自信がない。不器用で不格好な生き方しかできない自分に苛立ちながら、どうにもできないでいる。

のちに芙美子の代表作となる『放浪記』には、大正11年（1922年）に上京してからの、こうした苦難の五年間が綴（つづ）られている。本を開けば、「侘びしい」「淋しい」「悲しい」という言葉にたびたび突き当たる。「お腹がすいた」「一人ぼっち」「消えてなくなりたい」とも。けれど芙美子はそのたび、「なにくそ！　こんな事じゃあいけないね」と己を奮い立たせ、現実に立ち向かっていくのである。『放浪記』には孤独ややるせなさが詰まっている。だがそれ以上に、人間というものの底力、たくましさを感じるのだ。

女というのは「隣の誰か」より幸せでありたいと絶えず願う生き物である。古くはご近所さんと所得だの旦那だの子供だのを比べるのに余念がなかったし、昨今では素敵生活をアピールするブログやツイッターが巷に溢（あふ）れている。しかしそこで押される「いいね！」ボタンの多くは「へーえ……」くらいのテンションしか実は持っていない気もするのだ。女は、それほど素直に他者を受け入れはしない生き物である。

林芙美子は後年、押しも押されもせぬ流行作家になった。が、『放浪記』の彼女はなにひとつ持たず、明日をも知れぬ女である。でもここに渦巻く魂の叫びに触れるたび、人生とは他人に善し悪しを判じてもらうものでも、ましてや見せびらかすものでもなく、覚悟を持って背負うものだという道理を思い出すのだ。ついでに個人的なことを言わせてもらえば、オシャレなインテリアや素敵な知人に囲まれて、誰もがうらやむ充実した毎日を送る人よりも、「ああ何もかも犬に食われてしまえである」と毒突きながらもどっこい生きていく芙美子のような女と、私は友達になりたい。

［日本経済新聞朝刊女性面2013年6月29日付]

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。