税所敦子 重ねた努力 大舞台への階段ヒロインは強し(木内昇)

世の変革期というのは、いわば総力戦である。歴史的事象には男の活躍譚が目立つが、女たちもまた、陰となり日向となって戦っている。二百年以上続いた幕府が倒れ、新政府が誕生した明治維新期もしかり。賢明で勇壮な女性が数知れず登場する。

税所(さいしょ)敦子も、この激動期を生きたひとりだ。しかしその生き方は、革命のために自ら行動を起こした志士たちとは趣を異にする。ひと言で言えば「受け身」なのである。

■皇后の和歌の侍読に抜擢 1825~1900年。京都聖護院村錦織の里に生まれる。20歳で結婚したが、28歳で死別。男の子を授かるがこの子も亡くし、単身薩摩へ渡り夫の母と継子の面倒を見る。近所の人から「鬼婆」とあだ名されていた姑に一心に仕えた。明治8年(1875年)に皇后の和歌のお相手に抜擢され、宮内省に出仕。亡くなるまで20年以上勤め上げた。歌集に『御垣の下草』、紀行文集に『心つくし』『内外詠史歌集』など。

敦子は京都聖護院村で、公家侍の娘として生を受けた。歌会が茶飯事という環境にあり、彼女は幼い頃から和歌に親しむ。書見に時を割き、のちに千種有功(ちぐさありこと)という師について本格的に歌道を学ぶようになる。大田垣蓮月や高畠式部という名高い女性歌人と親交を得たことも刺激となった。きっと若き日の敦子は、いずれ蓮月たちのような歌人になりたいと夢を抱いていたのではなかろうか。

が、千種の門人であった薩摩藩士・税所篤之の後妻に入ったことで彼女の運命は意外な方向へ転がっていく。いかに尽くしても、男尊女卑の塊のような篤之は彼女を冷遇した。さらに八年後、肺病で篤之が亡くなると、敦子は継子と姑の面倒を見るため薩摩に下るのである。いかに慣習とはいえ、やっと横暴な亭主から解放されたのに、会ったこともない彼の家族のために骨を折るというのは、少々人が良すぎる気もする。

が、ここから敦子は不思議な花開き方をするのだ。まず薩摩藩主・島津斉彬にその教養を買われ、お世継ぎの教育係に抜擢される。斉彬亡きあと、今度は国父・島津久光の養女・貞姫の輿入れに従って、京の近衛家に用いられる。維新後、その貞姫が夫と死別して仏門に入ると、敦子も付き従って東京に移り住んだ。

このとき齢五十一。静かに余生を送ろうと決めた矢先、また思いがけない依頼が敦子のもとに舞い込む。皇后の和歌の侍読(じどく)に任命されたのだ。しかも歌道を説くだけでなく、宮内省に勤める女官たちの機構改編をも任される。新時代に不要な旧習を改め、合理的な仕事法を編み出し、西欧諸国と交流を深めるために自ら進んで英語やフランス語を学んだというから、まさに最先端の改革を、もっとも古式ゆかしき組織で成したと言えるだろう。

敦子は自分から手を挙げて前へ出るタイプではない。与えられた環境で、その都度自分ができることを着実に黙々とやり遂げていった人である。深い教養や抜きんでた和歌のセンスが彼女の価値を高め、なにを語らずとも自然と周囲が一目置いて大舞台に用いられたのだろう。

理想を掲げることは大事だが、自らの価値観のみに固執すると時に思考や行動を狭めてしまう。好きなものを好きと思う心を忘れず、目の前の仕事に取り組み積み上げていくことで充実した人生を送れるという、彼女は見本のような人だ。晩年の敦子は「明治の紫式部」と称された。紆余曲折を経て、理想へとしかと辿り着いたのだ。

[日本経済新聞朝刊女性面2013年9月21日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。