元印刷工場は起業の秘密基地 「社会を変える人」育てる
女子力起業(5)
編集委員 石鍋仁美
東大で社会変革のノウハウを学び、大手シンクタンクでコンサルティングの実戦を重ねた。そんな女性が今年2月、起業家向けに新タイプの雑居型オフィスを開いた。英国で生まれた同種のオフィスの国際ネットワークにも加わり、「日本を変える起業家」たちを世に送り出そうと張り切る。

若手の「女性」経営者による、ベンチャー向けオフィスの新規開業。そう聞くと、ピカピカで小ぎれいな空間を想像するだろうか。実際は、全く違う。元印刷工場そのままの古い壁や天井。無造作に置かれたソファ、設備がむき出しのキッチンやカウンター。ずらりと並ぶ変則的な形の仕事用デスクは、本来は「客」であるはずの入居予定者たちが手づくりした「共同作品」だ。
丸の内や六本木の新築オフィスビルとは全く違う空気。ドアも工場時代のものだから、一見オフィスには見えない。こうした空間が、未来を切り開く人たちの秘密基地といった感じを醸し出す。
国際的ネットワークに接続した雑居式オフィス
場所は東京・目黒駅近く。名称は「HUB Tokyo(ハブ・トーキョー)」という。英国を発祥の地とする新世代の雑居式オフィスの日本第1号だ。立ち上げの中心となった槌屋詩野さん(34)は、日本総合研究所で企業の社会的責任(CSR)や社会的責任投資(SRI)の分析、社会的起業やBOP(途上国)ビジネスのコンサルティングを経験。今度は自分たち自身が社会起業家となり、他の起業家を育成、支援していくことにした。
運営スタッフは槌屋さんを含め7人。このうち日本国籍は3人だけ。20代後半から50代まで現在80人いる会員の1割は外国人だ。「日本語が自在に話せる優秀な人が多い。他の会員の刺激になっているはず」
部屋には作業用のデスクが並び、起業家やその予備軍、フリーランスのデザイナーやコンサルタントなどが自由に使う。こうした形式のオフィスは「コワーキングスペース」や「シェアオフィス」と呼ばれ、2年前から日本でも急速に増えつつある。
「HUB Tokyo」の違いは2点。1つは国際ネットワークに加盟していること。海外の「同志」とのやりとり、相互利用は会員の目を世界に向けさせる。もう1つは、それも手伝い、極めてエネルギッシュで意識の高い人々が自然に集まりつつあることだ。

「HUBは本質的な議論が交わされるのが特徴。誰かのアイデアに対し、周りの人は、ただ『それはいいですね』と言うのではなく、本当にやりたいのか、売れるのか、その後どうするのか、などと尋ねていく」。自分の根っこで考え、議論する場であってほしい。そのため、交わされる会話や対話の中身が本質的なものになるよう気を配る。「会員の方の人生にとって、何かのきっかけになる場にしたい」と願う。
そのために、キッチンで日々交流を深め、イベントスペースに投資家を招き新ビジネスのプレゼンテーションコンテストを開く。すぐ隣に図書館や美術館、ジムやプールを備えた公園がある。桜並木の美しい目黒川も近い。クリエーティブな活動にはありがたい立地かもしれない。
"師匠"はウイリアム・モリス
日本で生まれ、東大在学中に英国に交換留学で約1年滞在。大学院の2年間も含め、駒場の教養学部に身を置き、社会変動論を研究した。社会が変わるとき、どういうメカニズムが働くのかを、政治、経済、社会、文化にまたがって研究する学問だそうだ。

大学院では19世紀の英国のウイリアム・モリスを研究。モダンデザインの父といわれるデザイナーでありながら、詩人で、かつ社会活動家でもあった。啓発よりも、民衆の力を信じ、自律的な力を引き出す(エンパワーメント)ことが社会を変えることにつながる。そういう姿勢の人だった。
人々をエンパワーする人、された人の話、その結果などに心を引かれた。
並行して国際協力の非政府組織(NGO)オックスファムにも参加。古着の販売などを世界の貧困の解消に役立てる活動をしており、インターンとして3年働いた。「机の上の研究だけでなく、実際にやっている人にかかわりたくて」
「いいこと」をして満足、では先がない
担当は日本でのキャンペーン。このとき、日本の既存の市民運動が人材、方法、市場で閉ざされ、限界にあることを実感した。他方、槌屋さんのいた日本オフィスは人員を3年で5倍に増やした。社会的な活動に携わる人々も、ただ「いいこと」をして満足するだけではなく、自分たちの事業を伸ばし、広げることを考えないと維持できない。そんな発想を、このころに身につけた。ボランティアを安く使うのではなく、かかわる人もハッピーになるような活動とは。人生の課題となった。
就職し、後に英国に駐在。途上国の農村などに足を運ぶ傍ら、ロンドンでHUBを知り、仕事で通う。「優秀で、志が高く、社会にインパクトを与えたい人」が集まっていた。知識をシェアを、互いの成長に拍手するコミュニティー。「これを日本に持ち帰りたい。そして日本の起業文化を変えたい」。そう心に決める。退職し会社を設立、今年の開業にこぎつけた。
槌屋さんが通ったロンドン市中心部のHUBを、筆者も取材したことがある。

場所はロンドンのへそとも言えるトラファルガー広場に近い大通りに面したビルのワンフロア。開業は2011年秋。1200平方メートルという広い空間に、まちまちなデザインの机といすが160人分ある。壁には手書きの飲食店地図。本格的なキッチンには調味料や食材。打ち合わせ用スペースは温室に似た覆いで仕切るなど、遊び心が光る。ノートパソコンで作業をする人。グループで話し込む人。商品サンプルを撮影する人。学園祭前夜の雰囲気だ。
それぞれが起業家か、その予備軍だ。志を共有する同世代が多い。アイデアや情報を交換し、互いに刺激を受ける。食事やお茶を共にするうちに新ビジネスのアイデアが生まれ、一緒に事業を始める例も珍しくない。多人数が集まれるコーナーでは起業に役立つセミナーも開く。巣立った「卒業生」が後輩を集めて助言することも。投資家には出資対象を探す格好の場となる。
起業家が交わり、志を形にする場
HUBの第1号は2005年、ロンドンで生まれた。創業者が市内のカフェで「社会起業家や活動家が、もっと動きやすくならないと社会は変わらない。そのためにもコワーキング(協働)できる場を作り、起業や活動のコストを下げよう」と、友人たちと話していた。すると、隣に座っていた裕福そうな人が「面白い。カネを出すからやってみろ」と話しかけ、事業が始まった。そんな逸話が伝わる。

現在、世界に約40カ所。大半は地元の若者が立ち上げ、独立採算で運営する。取材で訪れたHUBはロンドンに3カ所あるうちの1つ。建築デザイナーなど3人の若者が会社を作り運営する。「経済にインパクトを与える100の起業家、チェンジメーカー(変革者)、新事業を、ここから立ち上げたい」と、創業メンバーの1人で最高経営責任者(CEO)のアリス・ファン氏は語った。本業は建築デザイナー。中古家具を巧みに使った居心地が良い内装は、経営者の個性の表れか。「ホスト」と呼ぶ運営者により、空気は拠点ごとにだいぶ違うという。
他の拠点との情報交換や相互利用も活発だ。欧州、北米、南米、中東やインドに広がる拠点を利用したり、スカイプなどで意見を交換したり。英国では産業や起業家の育成のため、政府や自治体がこうした場の設置を出資などで応援しているそうだ。
話を東京に戻す。日本のコワーキングスペースはHUBを目標に立ち上げた案件も多い。当然、日本のHUBを作ろうと、過去に既存のHUB運営者らと接触した日本の若者もいた。しかし実を結ばなかった。槌屋さんの申し出が受け入れられ、ようやく日本1号が誕生。世界のネットワークに追いつこうとしている。

日本にも起業文化が芽吹くか。HUB Tokyoの最高財務責任者(CFO)で、英国の金融業界で長く仕事をしてきたポチエ・ドゥ・ラ・モランディエール・真悟さんは、「日本は米国をまねし、起業でもスーパースターを作ろうとする。でも英国式に、みんなで一緒に、という方が向くのでは」と助言する。「ギャンブル」と「ビジネス上のリスク」の違い。プレゼンのスキルへの注目。日本でも認識や関心が変わってきているとみる。
槌屋さんは、欧米でも、途上国でも、優秀な社会起業家を見てきた。日本でも「3年後までに、投資対象となるようなチェンジメーカーを作りたい。横並び社会では、事例がひとつできると一気に変わるから」。日本ならではの「社会変動」を、ここから起こすつもりだ。
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