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朝・夕刊の「W」

奥村五百子 志に性別は関係ない ヒロインは強し(木内昇)

2015/9/27

この欄では、男女の壁を乗り越えて活躍した女性たちを主に取り上げてきた。だが、こと奥村五百子(いおこ)に関しては、初手からその意識の内に、「男女」という線引きが希薄だったように思う。行動を起こすのに性別は関係ない。志ある者が動けばいいと、早くから信じていた節があるのだ。

イラストレーション・山口はるみ ■愛国婦人会を設立 1845~1907年。肥前唐津に生まれる。父は釜山海高徳寺の住職。7歳ごろから塾に通い、男子の中にひとり交じって学問を身につけた。22歳で最初の結婚。夫と死別後、水戸浪人の鯉淵彦五郎と再婚。平戸に移り、お茶の行商をするがうまくいかず、夫婦仲も険悪になって離別。1901年に愛国婦人会を立ち上げたのちは、病の身をおして日露戦争の戦地を慰問するなど、60歳過ぎまで活動を続けた。

佐賀唐津に生まれた彼女は、異国船来航に端を発した騒擾(そうじょう)が国中に吹き荒れる幕末に青春期を送った。諸藩の思惑も幕府を支持する佐幕と、王政復古を望む勤王に二分した時期。唐津は佐幕派だが五百子の父は勤王思想を抱き、同じく勤王派の長州と暗々裏に接触する。その使いを担ったのが十八歳の五百子だった。男装して馬関に乗り込み、陣所の奇兵隊に談判して入国したというから肝が太い。

彼女が後年、国事に関心を強くしたのは、この経験が大きかったのではないか。王政復古から倒幕、新政府誕生に至るまでの変遷を見、個人が動けば国が変わると実感したのだ。以来多くの志士や政治家と交遊し、中でも西郷隆盛に心酔、西南戦争勃発の折は共に戦わんと働きかけた。また、生まれ育った唐津を豊かにするため、産業の拡大や貿易港開港にも努めている。

結婚は二度。一度目は夫と死別し、二度目は大恋愛の末に結ばれるも、夫がろくに働かず絵ばかり描いていることに業を煮やして別れを切り出した。すると夫は、こう切り返す。「お前みたいに、家を外に出歩く、男のような女は御免じゃ」(「奥村五百子」小野賢一郎著)。五百子の長男も「きつい母という感じしか残っていない」と証言している。五百子自身、「大きな仕事をするには亭主など邪魔ですから、別れました」とのちに語っていることからしても、彼女にとって国事が第一で家庭との両立ははなから頭になかったのかもしれない。

壮年になった五百子はいっそう活動の幅を広げる。韓国光州へ移住して開墾に従事した。日本村を築き、政府から資金を得るため貴族院議長の近衛篤麿に談判もする。さらには北清事変後の中国を視察。凄惨な現場を目にして、戦死者を供養し、遺族や戦傷者を保護するための機関、愛国婦人会を立ち上げて、全国、そして近隣諸国を行脚する。

政府要人と通じていることもあり、軍国主義者のレッテルを貼られもしたが、彼女は必ずしも戦争賛同者ではなかった。困難に直面している人を救いたい、国をよりよくしたい、その一心だったのだ。

ただそうした善意も時勢によっては、広告塔的に政策に利用されることもありうるから恐ろしい。一口に「国を思う」といっても形や方向性はさまざまだ。だからこそひとりひとりが意識的に周りを見、自分の意見をしかと持つことが大切で、そうしなければ、知らぬうちに時代の波にさらわれかねないのである。

五百子は、大隈重信のような大物にも臆せず意見を言った。至極口うるさかったから、「カミナリ婆さん」と周りから怖がられた。そして、志を貫き、理想をかなえることは、男女に関わりなくできるのだと、その生涯を通じて証してみせた人だった。

[日本経済新聞朝刊女性面2015年9月26日付]

木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

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