マラソン野口みずきさん 失業の中で育んだプロ意識
五輪金メダリストに聞く(上)
有森裕子さん(1992年バルセロナ五輪銀メダリスト、96年アトランタ五輪銅メダリスト)、高橋尚子さん(2000年シドニー五輪金メダリスト)に続き、日本陸上女子マラソンの黄金期を築いた、04年アテネ五輪マラソン金メダリストの野口みずきさん。150cmという小柄ながらも力強いストライド走法でもたらした、05年のベルリンマラソンでの2時間19分12秒という日本記録は、今もなお破られていない。
輝かしい実績を残した野口さんだが、栄光の裏には失業期間を経験し、長年度重なるケガに悩まされ、決して順風満帆な競技生活とは言えなかった。地道な練習に取り組むために立ちはだかるいくつものハードルを、どのような思考やメンタルで乗り越えたのか伺った。
「チーム・ハローワーク」がプロ意識を育み、ブレークへと
――高校卒業後、ワコールの実業団に入られました。しかし、入社2年目の夏、会社との方針の違いで退職した藤田信之監督と、20年近く苦楽を共にする広瀬永和コーチ、そして先輩たちについていく形で退社されます。次の所属先が決まるまでの4カ月の失業期間は、不安だったのでは?
所属先がなくなる不安がゼロというのはウソになりますが、退職は自分で選びました。決め手はやはり指導者です。藤田監督と広瀬コーチに指導を受け続けたいという気持ちが強かったですね。
実業団に入って同期の中で下から2番目のレベルだった私は、五輪からはほど遠い選手でした。社会人になって体重が増えて故障も多く、鳴かず飛ばずだった私を一緒に連れていってもらえるだけでも感謝だったんです。監督やコーチのために結果を出したいという思いが、より強くなりました。
退社後、寮生活から同じ団地に1つずつ部屋を借りて、半共同生活をスタートしました。ワコール時代には当たり前のようにいた栄養士さんも不在の中で芽生えたのは、何もかも自分たちで管理しなければいけないという「プロ意識」。失業保険をもらいながら走っていたこの時期がなかったら、五輪で勝てる選手になってなかったかもと思うぐらい、ターニングポイントになった濃い4カ月でした。「チーム・ハローワーク!」と仲間で冗談を言い合いながら、不安よりも「この先どうなるんだろう」とワクワクしていましたね(笑)。
――どんな「プロ意識」が芽生えたのですか?
練習だけでなく、食事や睡眠をより意識して能動的に取り組むようになりました。土台がしっかりしてこそ体が動くし、精神面も安定して結果につながる。
マネージャーと当時コーチになられた故・真木和先輩(92年バルセロナ五輪陸上女子1万メートルと、96年アトランタ五輪陸上女子マラソンの代表)が栄養学を勉強されていて、先輩たちから栄養素や1日の必須摂取カロリーなどを教えてもらい、近所のスーパーに行って安くて良い食材を選んで自炊していました。それまで包丁なんて握ったことがなかったので、自分で料理することで食に対する意識が高まったと思います。
「ハーフの女王」として頭角を現す
――そんな中、99年に犬山ハーフマラソン(愛知県)に挑戦されます。
招待いただいて。それまで3000メートルや1万メートルのトラック種目の練習をしていましたが、スピード勝負のトラックより、長い距離の方が適性があると監督やコーチに背中を押され、チャレンジすることに。少しずつ練習の距離を伸ばしていくと、食事面で意識していたことも手伝って体も絞れてきて、タイムも速くなっていきました。ワコール時代は管理されていたのに太ってしまったので、自分で意識してコントロールすることは大切だと思いますね。そうして、ハーフマラソン初出場で初優勝できました。
――そのタイミングで、監督らと一緒に新しい所属先のグローバリーへ移籍されます。
不況で就職難だった時に援助してくださったことがありがたくて、「社長やチームメイトと一緒に新しいチーム作るんだ!」というモチベーションが高まりました。社会人1、2年目は、好きなことでお給料をもらえることが恵まれているのだと気づきませんでした。失業を経験したおかげで、対価をもらっているからこそ結果を出さなければというプロ意識がさらに強まり、結果も面白いように出始めて、楽しくて仕方がなかったです。
もう一人の同期の田村育子選手と切磋琢磨(せっさたくま)したのもあって、2人で試合に出るたびに自己記録を更新して、どんどん自信もついてきました。すると、練習もさらに能動的になるんです。監督やコーチから言われる練習の設定タイムよりも、「もっと速く走ろう!」と自分自身で追い込んで走っていました。
――監督やコーチはどんな指導をされたんですか?
選手の個性を生かした練習メニューでした。私は昔からストライド(歩幅)が大きい走りでしたが、それがうまく推進力につながっていなかったんです。そこで、フォームを大きく変えずにストライド走法[注1]が生きるように、広瀬コーチに修正してもらいつつ、腿(もも)上げといった短距離選手がウオーミングアップでやるドリル(動きづくり)を練習に取り入れました。ストライド走法でフルマラソンは持たないと周りに言われたのですが、スピードを維持しながら長い距離を走るために、他の長距離選手よりはウエートトレーニングや補強、動きづくりを多くやっていました。
監督やコーチに指示されたトレーニングだけでなく、自分でも工夫していました。腰高ですごくかっこよい走り方の同期のフォームをまねするなど、とにかくいろんな選手の走り方を観察しましたね。目に焼き付けてまねして体に覚えさせて、自分が一番走りやすくスピードが出るフォームを模索していったイメージです。
[注1]ストライド(歩幅)を広くした走り方。歩幅を狭くし足の回転数(ピッチ)を上げるピッチ走法と比較されることが多い。
追い詰められた時の対処法
――99年の世界ハーフマラソン選手権で銀メダルを獲得。その後も数々の国内大会で優勝し「ハーフの女王」として頭角を現しましたが、フルマラソンに挑戦しようと思った理由は?
ハーフマラソンでは世界で入賞し、1時間8分台を出せる実力がついたので、監督やコーチからフルマラソンに挑戦したら面白いかもと言われ、私も挑戦したい気持ちが高まりました。
最終的な引き金は、高橋尚子さんがシドニー五輪で金メダルを獲得されたときの映像を見ながら、あの大歓声を私も独り占めしたいと強く思ったことです。先輩方が「自分もやれるかもしれない」という道筋を残してくださったことは、とても大きかったですね。
――2001年に開催された世界陸上選手権エドモントン大会の1万メートルの代表に選ばれ、世界での経験を積み、2002年に初マラソンの名古屋国際女子(現:名古屋ウィメンズ)マラソンで、2時間25分35秒を記録していきなり優勝されます。
中国の昆明で順調に練習を積んで、渋井陽子選手の初マラソン記録(当時)だった2時間23分11秒を目標にしましたが、午後スタートだったので気温が上昇し、後半少しバテてしまい、目標には届きませんでした。翌年の大阪国際女子マラソンで2時間21分18秒で優勝し、当時の国内最高記録をマーク。同年の世界選手権パリ大会で銀メダルを獲得して、念願だったアテネ五輪の切符をつかむことができました。
――切符をつかむには、私たちの想像を絶する練習量だと思うのですが、くじけそうになったことはないのでしょうか?
もちろんありますよ! 思うように走れなかったり、練習で自分はよくやったと思ったのに、広瀬コーチは「まだまだだ!」と言ってきたり。いじけますよね。監督やコーチはなかなか褒めてくれなかったのですが、それは私の性格をよく理解しているからこそ。褒めて伸びるのではなく、反骨精神で伸びていくタイプなので。褒められるといい気になっちゃいますし(笑)。
でも、あまりにも悔しい時や追い詰められた時は、監督やコーチの前ではぐっと堪えて、部屋で独りでシクシク泣いたり、わーって叫んだり、枕を壁にぶつけたり。人に見られないところで毒素を吐き出してモヤモヤを落ち着かせ、気持ちをコントロールしていました。一晩寝て朝起きたらケロッとしてスッキリしています。引きずっていても仕方がないし、モヤモヤしていたらいい走りはできません。次の日は新しい練習メニューに立ち向かわなければいけないので。
五輪で金メダルを獲得するために大切なこと
――夢の大舞台の切符をつかみ、プレッシャーや緊張はなかったですか?
アテネ五輪の時は、計画通りにトレーニングが積めて早く走りたい気持ちが大きく、そんなにプレッシャーは感じてなかったです。でも、直前で風邪を引いて喉を痛めちゃって(苦笑)。
当初、内臓疲労などから直前で練習が積めないことが一番怖かったので、食事や気温には十分気をつけていました。ギリシャ・アテネは暑いので、涼しいスイス・サンモリッツで1位でゴールテープを切るイメージでトレーニングを積み、急激な気温の変化を避けるべく、アテネに入る1週間前にいったんドイツのフランクフルトで事前合宿をしたんです。すると予想に反して冷夏で寒く、体調を崩しました。
アテネに入るとやっぱり暑くて。極め付きはレースの前日、予定していた練習場所が工事のせいで急に変更になり、着替えを持ってきてなかったので汗をかいたまま移動することに。藤田監督に「アホー! 着替えを忘れたんか!」と怒られました。でもそこで怒られたおかげで、ある程度緊張はあったと思うのですが、「もう、やるしかない」と開き直れました。
――ベストコンディションではない中で、きちんと結果を出すのがすごいと思うのですが、大舞台で結果を出せる人とそうでない人の違いはなんだと思いますか?
今までやってきたトレーニングに自信があるかどうかが大きいのではないでしょうか。不安材料があれば、その不安が足かせになることもあると思います。アテネ五輪のスタート地点に立ったとき、「私はこの中の誰よりも練習してきた」という揺るぎない自信がありました。1人で走る練習は本当に自分との戦いだから、練習の方がレースよりきついんです。練習は120%で、レースは100%ぐらいの感覚でしょうか。1日最高65km、月間1370km走ったことがありましたが、練習で追い込んで築き上げたものが自信になり、レースに臨むときの余裕になる。だから金メダルを獲得できたのかなとも思います。
(第2回に続く)
(ライター 高島三幸、写真 水野浩志)
1978年三重県生まれ。宇治山田商業高校からワコールの実業団へ。グローバリーを経てシスメックスに移籍。ハーフマラソンで頭角を現し、世界ハーフマラソン選手権で銀メダルを獲得。2002年マラソン初挑戦の名古屋国際女子マラソンで初優勝、03年の世界陸上選手権で銀メダル、04年アテネ五輪では金メダルを獲得。05年のベルリンマラソンで2時間19分12秒の日本新記録を樹立。16年の名古屋ウィメンズマラソンを最後に引退。現在は、岩谷産業陸上部でアドバイザーを務める。
〈訂正〉12月10日3:00に公開した「マラソン野口みずきさん 失業の中で育んだプロ意識」の記事中、「田中育子選手」は誤りで、正しくは「田村育子選手」でした。本文は訂正済みです。
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