俳優・山崎裕太さん 「親のせい」と言えるのは幸せ

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優の山崎裕太さんだ。
――3歳から芸能界で仕事をしてきました。
「銀座で迷子になった時、前に所属していた事務所の社長に助けられたのがきっかけです。翌月にはモデルとしてデビューしていました。小学生になると『あっぱれさんま大先生』などバラエティー番組にも出演し、めまぐるしい生活を送っていました」
――お母さんが売り込みに熱心なステージママだったんでしょうか。
「そういうわけではなかったです。僕は小1の時から基本、一人で現場に行っていましたし。両親は僕が小さいころに離婚し、僕が稼ぐ必要もあったんです。母のためというより、かわいがっていた弟のために仕事を頑張ったというのが本当のところです」
「実際、僕は仕事が苦痛でした。小学校に行けないことも多くて、普通の生活を送りたいといつも思っていました。眠いのに朝4時に起きてセリフを覚えなくちゃいけないなんてこともあります。仕事に行きたくない、と母とよくけんかしていました」
――過酷な環境でしたね。
「小5のとき母が再婚し、妹が生まれたんです。父もできてやっとやめられると思ったけれど、仕事が順調で流れに乗っていたのでやめられませんでした」
――どんな思春期でしたか。
「中学時代、耳にピアスの穴を開け、髪を染めるなど不良少年に。うまくいかないことは全部親のせいにしていました。でも、親がいなくて施設で暮らしたり親代わりの大人に育てられたりした友人に10代後半で出会って、変わりました。責任転嫁できる人がいるだけ自分は幸せ、と気づいたんです」
「自分は芸能界の仕事以外に特技がないという現実にも向き合いました。それからはこの仕事を頑張っていこうと気持ちが固まりました」
――お母さんにとって、頼りになる息子だったのではないですか。
「親戚の話によると、母は芸能界の仕事に憧れていたようです。自分ができなかったことを僕がやれてよかったのかもしれない。子役の仕事をやるよう方向付けたのも愛情ゆえで、谷に子どもを突き落とすライオンのような心境だったんでしょうね。やんちゃしていたときは口出しせず、放置するわけでもなく、適度な距離で見守ってくれたことに感謝しています」
「母も忙しかったので、僕は子どものころから料理をしていました。和洋中何でも作ります。母と2人でいても僕が料理するのが普通で、母は僕が作るものをおいしいと言って食べてくれます。ある時、その姿を見ていたら、いつまでもこんな機会があるわけではないことに気づきました。母が食べたいというなら、どんどん料理してあげようと思っています」
(聞き手は天野由輝子)
[日本経済新聞夕刊2020年2月25日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。