出世ナビ

リーダーの母校

日本初のJAL女性機長、桐朋で培った「諦めない心」 藤明里・日本航空機長が語る(下)

2018/12/17

ある時、夕食時になっても帰ってこないチームがありました。この子たちがすごかった。真っ暗な林の中で、向こうの方に自動車の明かりが見えた。よし、助けを呼ぼうと道路の方に向かうと、前方には小川が流れている。一人の子が「泳げるから!」と小川にザブザブ入って行って、助けを呼んで無事帰ってきたらしいのです。

「否定することがない学校だったから、可能性を夢見ることができたのではないか」と語る

先生たちはおそらく大騒ぎだっただろうと思うのですが、待っている私たちは見つかったと聞き、「よかったねー」と。たくましく育ちますよね。

もう1つは修学旅行です。高校で京都・奈良に行ったのですが、京都でも生徒たちは町に放たれました。スタート地点とゴール地点には先生がいて、決まった時間までに帰ってきなさい、とだけ言われます。

グループに分かれ、行動は完全に自由。地図とガイドブックとにらめっこで、行きたいところを自分たちで決める。私のグループはお昼に豆腐懐石を予約して、最終チェックポイントの清水寺まで走って戻りましたね。

自由を与えられ、自己責任は求められます。そうやって育って、常に自分さえしっかり持っていれば可能性を夢見ることができたように思うのです。

9年間過ごした桐朋を卒業して立教大法学部に入学した。

飛行機が好きで、写真を撮って文化祭で売ったりしていましたが、パイロットになりたいという気持ちが固まったのは高校2年か3年のころでした。当時、日本で航空会社のパイロットになるには、航空大学校に行くか、航空会社の自社養成パイロットを目指すかという選択肢だということも知りました。

ところが、航空大学校は身長制限で断念せざるを得ませんでした。そこで大学を卒業して自社養成パイロットの資格を目指すことにしました。

大学生のころには、女性パイロットが日本の航空会社にいるかどうかはあまり気にしていませんでした。例えば相撲には女性はいないとか、スポーツで男女でできることが違うことはわかりますが、職業に関して性別の違いでできないことがあるなんて、考えたこともなかった。

大学卒業前には、航空会社の自社養成パイロットに応募しました。いくつもの会社に履歴書を出しましたが、見事に全滅でした。箸にも棒にも掛からなかったのは、まだ時期尚早だったのでしょうね。

でも、なぜか断念しませんでした。私はまず操縦免許を取ることから始めました。米ロサンゼルス郊外にあるパイロットの養成学校に入学。両親も反対せずに送り出してくれました。

事業用の操縦免許を取得して帰国。貯金するため、派遣社員として家電メーカーで働いた時期もあります。さらに、日本での事業用の免許を取るため、大阪府の八尾空港に通いました。

出世ナビ 新着記事

ALL CHANNEL