「みんな死んだ」 沖縄のおばぁに学んだ平和
立川笑二
師匠と兄弟子の吉笑と行っているまくら投げ企画、7周目。今回の師匠からのお題は「おばあちゃん」。
私の祖母は、父方が90歳、母方が81歳で、ともに健在。大変に元気だ。
父方の祖母はとにかくおしゃべりだ。私が遊びに行くと「かめーかめー(食べなさい食べなさい)」と言いながらエンドレスで食べ物を出してくる。そして私が食べている間、ずっと一人でしゃべっている。さらに、そのしゃべってる言葉の方言が強すぎて、祖母が絶好調のときは内容のほとんどが理解できない。それでも私が適当に相づちを打っていると「お前、方言分からんのか?」といって大笑いする。そしてまた方言でしゃべりだす。とにかくパワフルだ。
母方の祖母はその正反対で、自分のことをしゃべるというよりも私の話を聞いてくることが多い。「学校は楽しいか」「部活は頑張っているか」、最近では「東京でどんな暮らしをしているのか」と、ニコニコしながら私の話を聞いている。そしてなにより、私としゃべっているときに方言はあまり使わないように気を使ってくれているようにも思う。
父方の祖母は私の実家の近所に住んでいて頻繁に会えるのに対して、母方の祖母は少し離れているところに住んでいて会う機会が少ないということも関係しているのかもしれない。
パワフルな祖母と気を使ってくれる祖母。もちろん私はどちらの祖母も大好きだ。
今回はこの時期になると思い出す、父方の祖母とのお話。今から10年以上前、私が小学4年生だった年の6月23日のできごと。7投目。えいっ!
太平洋戦争時、沖縄での戦闘が終結した日付ということで、沖縄県内では毎年6月23日は"慰霊の日"という公休日になる。
その日の前後で県内の学校では平和学習という授業が行われていて、当日は戦争について考える宿題が出されることもあった。
私が小学4年生だった年の慰霊の日に学校から出された宿題が「おじいちゃんやおばあちゃんから、戦争の話を聞いてきなさい」というものだった。
私はこの宿題を受けて、近所に住んでいる祖父母の家を訪ねた。祖父は畑仕事に行っていて、家にいたのは祖母だけだった。
祖母はいつものように「かめー、かめー」と言いながら大量のお菓子を持ってきて私の前に出してくれた。
そのお菓子を食べながら私は
「おばぁ、戦争ってどんなだったの?」と聞いた。
祖母はテレビを見ながらお菓子の袋を開けて「これもかめー」と、私に差し出した。
「学校の宿題だわけさ、おばぁ、戦争ってどんなだったの?」
聞こえなかったのだと思い、今度は大きな声で聞いてみた。
相変わらず、祖母はテレビを見たままだ。
私は、視界を遮るように祖母の前へ移動して大声で
「おばぁ、戦争ってどんな感じだったの?」
結局、祖母は何もしゃべってくれなかった。
お菓子を食べられるだけ食べた私は夕方ごろに家へ帰った。
その日の夜、晩ご飯を食べているときに、祖母に戦争の話を聞いても答えてくれなかったという昼間のできごとを家族にしゃべった。
するとその話を聞いていた父がいきなり
「簡単に戦争の話なんて聞くもんじゃない!」
と怒り出した。
私が「学校の宿題だ」と反論しても
「そんな宿題はしなくてもいいんだ!」
と全くわかってくれない。その後も父から散々怒られ、「謝りに行く」という父に連れられて祖父母の家に行くことになった。
父の車に乗せられて着いたとき、祖母は、畑仕事から帰ってきていた祖父と晩ご飯を食べていた。
「さっきは、変なことを聞いてごめんなさい」
私は泣きながら謝ったが、正直、自分が何に対して謝っているのかわかっていなかった。
学校の授業では戦争の体験者として、近所のお年寄りから当時の話を聞く機会が何度もあった。
それなのになぜ、自分の祖母に戦争の話を聞いてはいけないのか。
宿題をやろうとしていた自分がなぜ謝らなくてはいけないのか。
なにもかもがわからなかった。
でも、普段は全く感情を表に出さない父が激しく怒っていたのが怖くて泣いていた。「謝れ」と言われたので謝っていた。
そんな私を見ていた祖母がポツリと
「みんな死んだ」
と言った。普段は難しい方言を使って、一人で延々としゃべっている祖母が
「みんな死んだ」
とだけ言った。
祖父は黙々と晩ご飯を食べていた。
隣にいた父がどんな顔をしていたかわからなかった。
私は相変わらず泣いていた。
そんな私を見ていた、喜怒哀楽のどれともとれないおばあちゃんの表情が、私にとっての平和学習だった。
(次回6月29日は立川吉笑さんの予定です)
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