エレキ三味線、響け生音 浪曲師と二人三脚で開発
三味線かとう主人、加藤金治
大ホールでの演奏会や電気楽器との共演でも生に近い音色を自在の音量で奏でることができるエレクトリック三味線。昨年末急逝した浪曲師の国本武春さんと出会ったのをきっかけに開発を始め、四半世紀余りになる。搭載部品などの改良を重ね、最新型になってやっと生に近い音が出せるようになった。
山形から戦前に上京した父が三味線の棹(さお)職人だったが、終戦2年後に私が生まれたころには三味線の需要は少なくなっていた。家計の足しにと荒川区の自宅に母が駄菓子屋を開き、子供たちのたまり場として繁盛していた。小さい頃は店の手伝いをよくさせられたが、三味線に親しんだ記憶はない。
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俳優と二足のわらじ
それでも中学を卒業したら何か手に職をつけないといけないと思っていて、父の紹介で三味線の皮張り職人に弟子入りした。3年間は住み込み、その後4年間は定時制高校に通いながら修業を続けた。2年間に及ぶ全国放浪の旅を経て帰京。自宅で皮張り職人として仕事を始めた。
当時は民謡ブームで、三味線の売れ行きも良かった。ただ、おとなしく職人の道を歩んだのではない。帰京と同時に劇団に入り俳優活動を始めていた。収入源として皮張り職人をしながら芝居に傾注する生活を十数年続けた。しかし40歳を手前にそろそろ潮時と劇団を退団。1989年3月に三味線の小売店を開いてからはこの道一筋だ。
ただ、すでに民謡ブームは下火。先輩の職人からは「遅かったね。稼ぎ時はもう終わったよ」と言われていた。それに新しい店にはなかなかお客は来てくれないので、店で三味線ライブを開いて人を集めようと考えた。たまり場だった駄菓子屋の記憶や芝居心がそうさせたのだろうか。
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ライブで三味線ロック
そこで出会ったのが武春さんだ。サングラスをかけた浪曲師が三味線でロックを演奏するという新聞記事を見かけ、浅草の木馬亭に出向いて出演交渉をした。するとこちらの思いを理解してくれて、開店3カ月後に武春さんをゲストに初回ライブを開いた。その直後に武春さんがキーボードやギターと共演する「三味線ロック」を見たのが、エレキ三味線をつくるきっかけとなった。
当時は三味線の前に設置したスタンドマイクで音を拾っていたが、そうするとバチが皮に当たる音を大きく拾ってしまい、三味線本来の共鳴音が十分に聞こえない。まして他の楽器の音量に負けまいと大きくバチを動かせば動かすほど、余計に共鳴音はかき消される。本来の音色が他の楽器と融合しておらず、とても残念に思った。
より直接的に共鳴音を拾うことができないかと考え、武春さんらとエレキ三味線の開発に着手した。具体的には胴体内部で音を拾うマイクと、音を増幅させる回路を設置。コードで外部アンプにつないで音を出す仕組みだ。こうすればスタンドマイクとの距離を気にせず演奏できる。1年がかりで試作器が完成し、初めて音を出したときは、大きな音が自在に出たことに感動した。
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内蔵マイク、残響音も
しかし試作器を毎日毎日演奏していると、様々な粗(あら)が分かってきた。最初はノイズがひどかったので、抑えるためにアースを付け加えた。また三味線はサワリという糸の残響音が魅力だが、それがうまく拾えなかった。これは内蔵マイクの設置位置を変えることで改善できた。最近は三味線の奏法に応じて内蔵回路の対象音域を合わせることで、より生に近い音を電気的に出すことができるようになっている。
友人らの紹介でプロの三味線奏者との関係も広がり、開発の助言をもらう機会も増えた。津軽三味線奏者の上妻宏光さんからは糸がはじかれた時の空気感を拾えるようにしたいと言われ、胴体の外側に第2のマイクを設置したエレキ三味線をつくったこともある。これまで回路の改良を続け、最新型は7代目。プロの方々から「生音に近づいた」とお墨付きをもらえるようになった。
2009年には店舗の2階をライブハウスとして新装開業している。海外に向けて三味線の魅力を発信したいとの願いを込めて「Chito-Shan」と命名。新装記念ライブは米国人奏者による三味線とカメルーンの打楽器の競演で幕を開けた。
広く三味線を楽しんでもらいたいという思いで、これまでマンションなどでも気軽に練習できるサイレント三味線や、東日本大震災のガレキを素材にしたエレキ三味線などもつくってきた。老若男女の嗜好を刺激する三味線づくりを続けていきたい。
(かとう・きんじ=三味線かとう主人)
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