ラジオ歌謡、大合唱の感動 戦後の人々支えた「名曲」
工藤雄一、日本ラジオ歌謡研究会会長
NHKラジオで終戦翌年から1962年まで放送された歌番組「ラジオ歌謡」。復興に歩む日本人を元気づけようと、古関裕而に米山正夫、宮沢章二ら時代を代表する作曲家や作詞家が番組のために楽曲を制作。外国曲なども含め840曲超の歌が流され、人々の心に刻み込まれた。
しかし年月が過ぎると音源はおろか楽譜さえも散逸していく。私は思い出のラジオ歌謡を歌い継ごうと、2002年に研究会を秋田市に発足。楽譜の収集に励むほか、全国各地での「ラジオ歌謡を歌う会」の立ち上げを支援したり、音楽祭を開催したりしている。
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耳澄ませ歌詞書き留め
少年時代の記憶が残っている。40年代末から50年代前半。小中学生の時だ。台所で夕飯の支度をする母がしばしば私に言った。「書き留めてね」。それを合図に私はラジオ歌謡に耳を澄ませた。
その頃は月曜から金曜までの毎日夕方に放送され、週に1曲を繰り返し流していた。曲の前にアナウンサーが読み上げる歌詞を、エンピツで紙に書くのが私の役目だった。そうして母は歌を覚え、母を通じて私も歌えるようになった。「白い花の咲く頃」「あざみの歌」「山の煙」……。名歌が私の心に残った。
秘めていたラジオ歌謡への思いが噴き出したのは、約半世紀後の2000年秋だ。高校物理教師の仕事を定年退職し、記念に秋田市文化会館でコンサートを開催。かつて市民交響楽団の指揮者もしていた関係で、この日は仲間が伴奏のオーケストラとして登場した。
後輩の演奏で私は好きな歌を熱唱、アンコールで「一緒に歌いましょう」と満席の1200人の聴衆に呼びかけた。歌うのは歌手の伊藤久男が歌った「山のけむり」だ。
驚きの光景が広がった。私と同年代か上の年代の人々が背筋を伸ばし、「想い出の ああ夢のひとすじ」と大きな声でうれしそうに合唱している。「みんな、こういう歌を大勢で歌いたかったんだ」と感動に震えた。
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レコード化は1割程度
ラジオ歌謡は、ただの歌ではない。苦しい時代に人々の血となり肉となって魂を支えた音楽だ。高齢の方には青春を共に歩んだ特別の思い入れがある。なのに平成の世では、テレビやラジオで聴く機会は皆無に近い。
このままでは忘れられる――。危機感を持った私は2002年、他の愛好者と「秋田ラジオ歌謡研究会」(現日本ラジオ歌謡研究会)を発足。まず現状を調べてみた。
そして衝撃を受けた。レコード会社が作った一覧表が残されており入手。それに基づくと、番組で845曲(現在の調べで846曲)が流されたことがわかったが、レコード化されたのは一割程度にとどまっていた。楽譜も入手困難で、危機的な状況になっていた。
目標が定まった。全曲の楽譜をそろえること。東北一円をエリアとする新聞に情報提供をお願いする投稿をしたことが突破口になった。全国から救いの手が相次いだ。NHKテキストのピアノ譜として出版されたり、番組紹介の専門紙に載っていたり。「ラジオ歌謡を復活させて」。一人ひとりの市民が強い思いで楽譜を贈ってくれた。
楽譜出版社の協力を経て03年にピアノ譜集「思い出のラジオ歌謡選曲集」を出版。この選曲集には、すべての楽譜の一覧表を載せ、未収の楽譜探しに協力してくれるよう呼びかける文も載せた。
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86%の730曲に到達
その後も楽譜は集まり続けた。現在、10年超をかけて全曲数の86%にあたる730曲に到達。だが、まだ110曲近くが見つからない。特に終戦直後の46~48年のものが多い。その頃は、まだラジオ歌謡のピース(楽譜)が出版されていない時期である。時間がたてば発見は不可能になるかもしれない。焦る思いで収集に力を入れている。
研究会では他の様々な活動にも励む。歌の生まれた時代背景などを探った「ラジオ歌謡研究」誌をほぼ毎年発行し、全国の主な公立図書館に寄贈。普及にも汗を流し、全国の有志が一都8府県に「歌う会」をつくると、私は歌唱指導などで取り組みを支援してきた。
ラジオ歌謡を大勢で歌う音楽祭も重視。2007年から春には東京で、秋には秋田市でラジオ歌謡音楽祭を年に1回開催し続けた。遠方からも足を運んで下さる方がいたり、若い人の参加も増えてきたりと、年々盛り上がっている。埼玉でも開かれ、仙台でも今秋に第1回が予定されるなど、広がりをみせている。
ラジオ歌謡は懐メロではない。末永く後世に伝えるべきセミ・クラシックな名曲だ。世間に発信し続けるため、力の限りを尽くすつもりだ。
(くどう・ゆういち=日本ラジオ歌謡研究会会長)
[日本経済新聞朝刊2016年8月2日付]
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