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WAR旗揚げ戦であいさつする(1992年7月14日、後楽園ホール)=東京スポーツ新聞社提供

WAR旗揚げ戦であいさつする(1992年7月14日、後楽園ホール)=東京スポーツ新聞社提供

「昭和のプロレス」を体現した人気レスラーで、65歳まで現役でリングに立ち続けた天龍源一郎氏の「仕事人秘録」。鳴り物入りで立ち上げたSWSがわずか2年でピリオドを打った理由と、新たな団体WARを旗揚げして新日本プロレスとの対抗戦に挑んだ思いを語ります。

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 SWSは相撲に似た「部屋制度」も採り入れたが、まとまりに欠け1992年6月に解散する。90年秋の旗揚げから2年しかもたなかった。

部屋制度は機能していたけれど、レスラーは独立心が強く、我が出ます。それにメガネスーパーが戸惑い、試行錯誤が続いて皆が振り回されました。レスラーは鼻が利くんです。彼らは直接オーナーの田中八郎さんと話すけど、天龍社長は名前だけ。ないがしろでした。

他の部屋は僕のいる「レボリューション」が優遇され、自分たちが日の目をみないと愚痴、けなし合いをしています。そんな状況が続き、オーナーが僕の地元の福井県で勝山大会をやるときに「やめましょう」と言いました。ただ、僕は「SWSを楽しみにしている客はいるのでここだけは乗り切ってください」と話したのは覚えています。

消滅が決まり「プロ野球などプロスポーツと並んだと思ったのに」と悔しくてしょうがありませんでした。長崎での最後の大会の後、不覚にも涙が出ました。

 92年7月、新団体WARを立ち上げる。同時に新日本プロレスとの対抗戦を始め、活躍の場を広げていく。

SWSの母体だったメガネスーパーがレスラーめいめいが団体で活動するのを支援することになりました。僕が立ち上げたWARは「メガネスーパーがデメリットばかりじゃない」というのを見せたかったのが理由の一つ。加えて、本当のプロレスに飢えていた自分がいました。

当時の新日本プロレスは長州力が仕切っていました。彼とは年齢が近く、ジャパンプロレスを率いて全日本プロレスに来たときの付き合いもあり、対抗戦の話はやりやすかったです。

SWSで世間を騒がし、新日本のリングに上がるというのはインパクトはあります。僕がプロレスに転向して逆境のときでも応援してくれた彼らにいい格好をさせてやりたいと常に考えていました。

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