デ・アンドラーデはすぐに、傍若無人な振る舞いで中国人を怒らせた。まず、税の支払いを拒み、中国人の役人を襲い、しまいにはタマンに要塞を築き始めた。おかげで、友好的だったポルトガル人が攻撃的な占領者に変わろうとしているという印象を、中国人に与えてしまった。
さらに悪いことに、1521年に正徳帝が死去した際、ポルトガルの船団は中国の領海内での交易を一時休止することを拒んだ。これに対して、中国海軍はタマンにあったポルトガルの拠点を攻撃し、紛争に発展。結果、ポルトガルは撤退を余儀なくされた。こうしてタマンは捨てられ、中国は交易を停止した。ポルトガル人は、マラッカで体制の立て直しを強いられたが、中国の信頼を取り戻し、マカオに新たな拠点を築くことが許されるまで、数十年の歳月を要した。

アルバレスの軌跡をマカオにたどって
マカオで、タマンの数奇な運命をたどろうとしても、できることは限られている。アルバレスの像を訪ねるほか、丘の上の砦跡に入っているマカオ博物館に行けば、アルバレスの名に言及したわずかな資料を閲覧するくらいはできる。このモンテの砦は、400年前にポルトガル人によって建造されたものだ。
だがその丘の上からは、アルバレスが残した遺産を一望できる。遠くにはタイパ島のカジノ街が浮かび、すぐ足元には世界遺産に指定された古いポルトガル建築の街並みが広がっている。
美しいポルトガル風の広場、19世紀のヨーロッパ風の劇場、ポルトガルの要塞、植民地様式の大邸宅、時の流れを感じさせるカトリック教会。それらが中国の寺院や商店と完全に融合した独特の雰囲気を味わえるのが、マカオの街歩きの楽しみだ。
そんなマカオの誕生に貢献し、長年にわたるポルトガルと中国の友好関係の礎を築いたアルバレスだが、そうした自身の功績の行く末を見届けることはなかった。世代が変わり、マカオは発展し、アルバレスの役割はわずかな足跡を残して歴史のかなたに消えた。今、彼の石像を見ても、気に留める人はほとんどいない。没後500周年となる2021年、ポルトガルでもマカオでも、その功績を称える式典も企画されていない。
1521年、タマンの謎を抱えたまま、アルバレスはこの世を去った。遺体は、その8年前に自らが築いたパドラオの横に葬られた。
(文 RONAN O’CONNELL、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年9月23日付]