前腕を失った夫 最新研究で妻と「触れる」を実感

日経ナショナル ジオグラフィック社

2022/6/6
ナショナルジオグラフィック日本版

感じる義手 皮膚に何かが触れると、ごく単純な刺激でも非常に複雑な信号が脳に送られる。それを工学的に模倣する試みは始まったばかりだ。写真の義手が持っているのは、米ジョンズ・ホプキンス大学の応用物理学研究所で研究が進む「電子皮膚」。圧力に反応する素材を重ね合わせたもので、これを装着した義手が何かに触れると、その情報が脳で触覚として認識される(MARK THIESSEN)

手を握ったり、抱き合ったりすることは私たちの健康にどのような効果があるのか? 誰かと触れ合うことによって、心が安らいだり、幸せな気分になったりするのはなぜだろう? そして、事故や病気で失った触覚を取り戻すことはできるのか。“触れる”の謎に挑戦する研究の最前線を追った。

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左の前腕を失ってから6年後の2018年9月、米国メリーランド州で開催された研究者向けのシンポジウムで、ブランドン・プレストウッドは半ば笑い、半ば泣いているような顔つきで妻を見つめていた。夫妻の周りに集まった数人の1人がこの場面を記録しておこうとスマートフォンを構えた。ひげ面の男性が、長髪のきれいな女性と向き合っている。男性は肘先に白い義手を装着している。テーブルには電子機器が置かれ、その導線は彼のシャツの下に潜り込んで、肩の辺りにつながっている。彼の生身の体が電子機器に接続されている状態だ。

プレストウッドは、世界各地の神経科学者、医師、心理学者、医用生体工学者らが連携して進めている野心的な実験に参加している。米国オハイオ州クリーブランドにあるケース・ウエスタン・リザーブ大学の外科医らが、彼の左腕の切断面にメスを入れ、断ち切られた神経と筋肉に小さな電極を取り付けたのだ。さらに、そこから細い導線を50本近く上腕の皮下に通し、肩の付近で外に出した。この処置後、プレストウッドは上腕に貼ってあるパッチをはがすたびに、皮膚から突き出した多数の導線を見ることになった。

義手による“触れる”体験

ここ何カ月かはクリーブランドに定期的に通い、試験段階にある次世代型の義手を装着して、さまざまなテストを受けていた。この義手はモーターを内蔵し、指先にセンサーが付いている。こうした義手は機能回復を促す装置として大いに期待されているが、ケース・ウエスタン・リザーブ大学の研究チームが最も関心を寄せていたのは、単なる操作性の向上ではない。人が何かに“触れる”体験だ。そのために研究者たちは、プレストウッドの腕の導線をコンピューターに接続し、その反応を注意深く観察していた。

触れるという体験には、皮膚と神経と脳が関わっている。それらが相互に連携する仕組みは驚くほど入り組んでいて、それを理解し、測定し、ごく自然な形で再現する試みには、数々の困難が伴う。

ケース・ウエスタン・リザーブ大学の感覚復元研究室で行われた実験では、期待の持てる進展があった。例えば、義手で発泡スチロールのブロックを握る実験。プレストウッドはブロックの手応えを感じた。かすかだが、まるで失われた手の指から伝わってくるようだった。

妻のエイミーはそれまで研究室での実験に立ち会うことができず、冒頭で述べた9月のシンポジウムが初めての機会だった。新型の義手を装着した夫と、手を伸ばせばさわれる距離で向き合っている。

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触覚は「人類最古の言語」