
植民地や先住民から持ち去られて、博物館に収蔵された文化財を、故国に返還する動きが出てきている。国によっては半世紀以上前から文化財の返還を求めてきた。その訴えに、各国の政府や博物館、メディアがようやく耳を傾けるようになった。
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ここはアフリカ中部のカメルーンにある都市フーンバン。2022年2月、人口約10万のこの都市では、はるかサハラ砂漠から風が運んでくる塵(ちり)がすべてを赤く染めていた。あと1カ月ほどは太陽がもやでかすみ、暑く乾燥した日が続く。目抜き通りには、車のクラクションやオートバイのエンジン音がけたたましく響いていた。
この一帯は1884年から1916年までドイツの植民地だった。ドイツもほかの宗主国と同様、植民地の文化財を収集し、その保存や研究、展示に力を入れた。収集は人類の本能に深く根ざした欲求だが、現在のような博物館は、19世紀に欧州諸国が探検と征服の成果を披露するために造られた。
植民地主義の時代、収集活動は熱狂の域に達した。欧州の強国が探検家に地図を製作させたのは、純粋な知識欲のためではなかった。それと同じで、文化財も自然に集まったわけではなく、人類学者をはじめ、宣教師や貿易商、将校までもが、博物館と結託して世界の驚異と富を欧州に持ち帰ったのだ。博物館の学芸員が、武装した探検隊に希望の品々の収集を託すことさえあった。
1907年、カメルーンのバムン人を統治するスルタン(君主)だったイブラヒム・ジョヤに宗主国ドイツから信書が届く。皇帝ウィルヘルム2世の50歳の誕生日に玉座の複製を贈れば、さぞや心証が良くなるはずと書かれていた。父王から引き継いだ玉座はビーズで美しく装飾され、背後に立つ2体の守護神にちなんで「マンドゥ・イェヌ」と呼ばれていた。
スルタンの歴史にできた空白
玉座を買い取りたい、交換してほしいという数々の申し出をすべて断ってきたジョヤだが、このときばかりは了承している。その理由を記した記録は残っていない。確かなのは、職人に玉座をもう一つ作るよう命じたことだ。ところが皇帝の誕生日に間に合わないことが判明し、ジョヤは説得に応じて本物を差し出した。現在、ドイツの首都ベルリンにある民族学博物館が所蔵するのがそれだ。
2021年、ジョヤのひ孫に当たるナビル・ジョヤが、父の死去に伴ってバムンのスルタンに就任した。フーンバンの王宮で会見したとき、28歳の若き王はスマートフォンを取り出して、米国のプロバスケットボール・チームの帽子をかぶった自撮り写真を見せてくれた。ニューヨークの大学に5年間留学していたという。