「一寸先は光」、まず一歩踏み出す 作家・桐衣朝子さん
Wの未来
――小説を書こうと思ったきっかけは。
「2011年春に乳がんが見つかりました。死を間近に感じて、これまでの人生を振り返りました。27歳で見合い結婚、2人の娘を産み育ててきて、それはそれで大切でしたが、『世の中に役立ちたい』『働きたい』という気持ちもずっと抱えていました。がん宣告を受けて、人生の残り日数を数え始めた時、自分は何のために生まれてきたのだろうかと考えました。自分の存在価値を世の中に残せないままに、このまま死ぬのかと思うと悲しくなったのです」
「小説家になろうと決心した瞬間はよく覚えています。その年の4月下旬に手術をし、入院していた時です。街を行き交う幸せそうな人たちを病室の窓から眺めていました。その時、『私、小説家になろう』と急に思い立ちました。目の前には幸せそうな人がいますが、今この瞬間も自分と同じように絶望している人が全国のどこかにいるはずです。そんな人たちの救いになるように、がんを告知された時の孤独感など苦しい経験を文字に残そうと考えました」
――実際に書き始めたのは。
「退院するとすぐに執筆を始めました。狙いは小学館文庫小説賞。私の大好きな小説『神様のカルテ』がその受賞作だったからです。半年かけて『薔薇とビスケット』を書き上げて、締め切りギリギリに応募しました。幸いがんは転移していなかったものの、放射線治療はつらかった。その苦しみに耐えられたのも書く楽しみがあったからです」
――その作品が受賞しました。
「翌年に受賞の知らせを受けました。小説の出版が決まり、今年4月に編集担当者が地元の福岡を訪ねてきました。博多駅まで出迎えて、自宅に向かうために乗ったタクシーが偶然、入院していた病院の前を通りました。2年前に病室から絶望的に眺めていた通りから、逆に幸せに包まれて病院を見上げている。『人生は一寸先は光』。どんな幸運が待っているか予想できないと感慨にふけりました」
――どんな専業主婦生活を送ってきましたか。
「高校卒業後に歯科衛生士や英語講師として働いた後、結婚しました。自営業の夫は家を顧みないタイプ。『おまえ、誰のおかげでメシを食べていられると思ってるんだ』と言われたことも何度かあります。でも悔しいけれど、その通り。当時は子育ても大変で、外で働き、稼ぐこともできませんでした。『今は専業主婦だからしょうがないが、いつかは外に出て働きたい』と思っていました」
「最初の転機は娘が中学校にあがった時。1997年に社会人枠で福岡大学に入学しました。高校生のときに大学に進学したかったのですが、経済的な理由で断念していました。娘たちに『頑張れば夢はかなう』と言い聞かせて育ててきました。ふと振り返って、自分の夢は何だろう?と考えました。一度あきらめた大学進学に挑戦しようと考えたのです」
――大学生活はどうでしたか。
「大学では心理学を専攻しました。46歳で初めての大学生生活。クラスメートとは親子ほどの年の差。むしろ先生方との方が年齢が近かった。勉強はとても刺激的で楽しかったです。もっと学問を究めたくて、2003年に九州大学大学院に入学、哲学と生命倫理学を学びました」
「大学院修士課程が終わる時、今度は挫折を味わいました。ここまで学んだ知識を生かして、非常勤講師でもいいからどこかで教えたいと教授に相談したら、年齢的に厳しいと断られました。何か社会で経験を積んでいるならまだしも、専業主婦では経験にもならないと。講師の職くらいはどこかにあり、ようやく外で働けるようになると期待していたので、ひどく落ち込みました」
――一度、専業主婦になると活躍の場は制約されてしまうのでしょうか。
「『頑張れば夢がかなう』と娘たちに言い聞かせてきましたが、現実には頑張っても実現できないこともあります。でも頑張ってみないと何も始まらないのも事実。私は職に就く希望もかなわず、がんも発病し、専業主婦のまま人生を終えるのかと一時は切なくなりました。でも今は小説家として活躍のチャンスを得ています。待ち受ける将来は必ずしも闇ではありません。『一寸先は光』と信じてまず一歩を踏み出すことが大切です」
「ただ、自分の人生を振り返ってみても、現実社会はつらく悲しい出来事にあふれています。だから私はせめて小説ではハッピーエンドの物語を書きたい。『薔薇とビスケット』は現代の介護施設で働く若い男性介護士が戦中にタイムスリップして、自分が世話している老人たちの若かりし頃と触れ合うストーリー。高齢者を描いているので、そこに死はあるが、悲しい死は書いていません。読んだ後に『この世は生きるに値するんだな』と思い、誰かにやさしくしてあげようと思える小説を書くのが、社会の中で自分に与えられた役割だと思っています」
(聞き手は編集委員 石塚由紀夫)
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