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東京ふしぎ探検隊

日本初の万博、大阪ではなく東京で開催予定だった

2013/11/1

■勝鬨橋は万博会場への玄関口だった

勝鬨橋は大きな船が通るときは中央部分が跳ね上がる。1970年を最後に開閉が停止された。写真は1970年に撮影したもの=共同

「東京万博」の痕跡はあちこちに残っている。

最も有名なのが勝鬨(かちどき)橋。東京・築地と月島を結ぶ可動橋だ。隅田川にかかるこの橋は、重要文化財に指定されている。日露戦争での旅順陥落を記念して住民が寄付した渡し船、「勝鬨の渡し」が名前の由来だ。築地はかつて軍艦教授所(のちに軍艦操練所と改名)があったことから海軍のルーツといわれており、この場所が選ばれた。

1940年6月完成の橋はもともと万博に合わせて計画された。東京都心部から万博会場への玄関口だったため、海外からの技術支援を断り、すべて日本の技術で造られた。世界に向けて、日本の技術力を誇示する狙いがあった。

ちなみに徳島県にも「かちどき橋」がある。1941年にできたらしい。当初は漢字の勝鬨橋だったが、読みにくいとしてひらがなに変更となった。

晴海には万博事務局棟が建設された。延期後は一時病院として使われ、戦後取り壊された。跡地は現在、日産自動車販売となっている。目玉建築だった「肇国(ちょうこく)記念館」は基礎工事だけが行われた。

中央区主任文化財調査指導員の増山さんによると、晴海・豊洲では万博に向けて造られた道路などはないものの、当時構想していた街区が現在も踏襲されているという。晴海・豊洲は万博によって土台が築かれたと言っても過言ではない。

■1940年にテレビ本放送も予定されていた

万博と五輪が計画された1940年は、日本にとって大きな意味を持つ年だった。2つのイベントと並び、実現していたらその後の歴史を変えていたかもしれない事業があった。テレビだ。

かつて万博事務棟が建っていた場所には、説明板があった

1926年12月25日、世界で初めてブラウン管に「イ」の映像を映し出した高柳健次郎氏。NHKに出向し、1940年の東京五輪に向けて、テレビ放送を始める研究を進めていた。

NHKは放送計画を立て、街頭テレビの設置も予定していた。五輪が実現していたら、1940年にテレビ放送が始まるはずだったのだ。

しかし五輪中止で放送も延期となった。それでも高柳氏は1939年、試験放送にこぎ着けるが、戦時色が強まり研究は中断する。テレビ本放送が実現したのは1953年だった。

■1940年は日本の分岐点

1940年といえば、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問の野口悠紀雄氏が「1940年体制」と呼んだ年でもある。戦時色が強まる中で、官僚による統制、間接金融、終身雇用や年功序列などの日本型経済システムがこの年に生まれたと野口氏は指摘する。

万博、五輪、テレビ。戦後の日本を象徴する3つが戦前に実現していたらどうなっていたか。「世界に開かれた日本」をアピールする必要性から、統制色を強めた1940年体制は成立しなかったかもしれない。

大阪万博の「太陽の塔」(1970年、日本万国博覧会記念機構提供)

臨海部の様子もずいぶん変わっていただろう。

1994年11月3日付の日本経済新聞(地方版)は「鈴木俊一・東京都知事(当時)の世界都市博覧会開催の動機は、幻となった1940年の万博の再現にあると言われている」と指摘している。

万博、都市博、そして2020年の東京五輪。東京市や東京都は臨海部の開発に強くこだわってきた。戦前に万博が実現していたら……。歴史のifを挙げればきりがない。(河尻定)


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