2020年の夏季五輪が東京で開かれることになった。東京での開催は2度目だが、実は開催決定自体は3回目となる。戦前、1940年(昭和15年)の開催権を手にしていた。五輪に合わせて競技場や道路の設計が進み、鉄道の新路線計画もあった。戦争突入で実現しなかった幻の五輪。その全貌を探った。
戸田公園のボート場は1940年大会の遺産
さわやかな秋空の下、ボートがすいすいと水面を走っていく。東京都と埼玉県の境界付近にある戸田公園(埼玉県戸田市)は、ボート関係者にとって貴重な練習場だ。
公園内にある戸田漕艇(そうてい)場は、全長が2.5キロにも及ぶ国内屈指のボートコース。1964年(昭和39年)の東京五輪ではボート競技の会場となり、すぐ近くには「オリンピック通り」という名の道路が走る。
このボート場、前回の東京五輪のレガシー(遺産)かと思いきや、違うらしい。ボート場ができたのは1940年。この年に開催予定だった東京五輪のために建設した競技場だったのだ。
橋本一夫著「幻の東京オリンピック」によると、1940年の東京五輪はそもそも、関東大震災からの復興を世界にアピールする場として、さらには「紀元2600年」の記念事業として浮上した。紀元2600年とは日本書紀に基づく日本建国の年から2600年、つまり神武天皇の即位から2600年という意味だ。それがちょうど1940年だった。
ヘルシンキとの一騎打ちに勝利
1932年に正式に立候補し、1936年7月の国際オリンピック委員会(IOC)総会で開催を勝ち取った。
当初の立候補地はヘルシンキ(フィンランド)、ローマ(イタリア)、ブダペスト(ハンガリー)、バルセロナ(スペイン)、アレクサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)の9都市。このうち7都市が脱落し、残ったのがヘルシンキとローマだった。
このうち、ローマは当時のムッソリーニ首相との直接交渉の結果、辞退を表明する。1944年大会でのローマ支持とバーターしたらしい。最後まで残ったのがヘルシンキ。総会直前には東京開催を阻止すべくロンドンが立候補したものの、当日になって辞退し、最終的には36票対27票で東京が勝った。欧米以外で初の五輪だった。