2011/1/5

歴史博士

藤堂高虎(写真提供:竹中銅器)

清正同様、高虎も朝鮮に従軍し、城郭の造営も手掛けた。しかし両者の築城スタイルは違う。分かりやすいところでは石垣の積み方。高虎のそれには清正式のような反りがなく、しかも高々と積む。伊賀上野城のものなど、高さ実に30mほどに及ぶ。強度を高めるために石垣と堀との間に犬走りという空きスペースを設けるのも高虎流だ。

高虎は自ら陣頭指揮に立った築城の職人

「高虎は職人肌で、先進性に富んだ工法も編み出しています」(加来さん)。高虎の築城術が確立した今治城の造営では「層塔型(そうとうがた)天守」を導入。従来一般的だった「望楼型(ぼうろうがた)天守」は、建造に手間がかかり強度に難があった。一方「層塔型」はプレハブのように規格化された部材を組み合わせる。強度を高めながら、工期もコストも大幅に削減することに成功したのだ。

今治城から見えてくる高虎の先進性が、もう一つある。それは彼が平和の到来と将来的な経済発展を念頭に、城と町を設計したことだ。今治城は、平地に築かれた「平城」であった。山の頂に築く「山城」や斜面を利用する「平山城」(熊本城はこのタイプ)と違って攻められやすいが、城下町を都市化するには都合がいい。

高さ30mに及ぶ伊賀上野城の石垣。石垣にことさらこだわる高虎は、徳川大坂城普請の際には総監督でありながら、自ら石工衆を指揮したという
藤堂高虎が築城した伊賀上野城。高虎は職人肌で、先進性に富んだ工法を生み出している。

事実、今治城のお膝元には平行する四筋(後に六筋)の街路が整備されている。馬や人の通行、つまりは物流に配慮した町づくりは、江戸城下でも踏襲された。「高虎の築城法は幕府に採用されたことで、その後のスタンダードとなりました」(広島大学教授・三浦正幸さん)。

ちなみに、今治城も熊本城も築城時期は関ケ原の戦い直後。清正には戦に備える事情があったにしろ、時代の趨勢を見極める眼力は、高虎が上手といえるかもしれない。

監修・加来耕三(かく・こうぞう)さん
 歴史家・作家 1958年生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。豊富な資料をもとに史実の新しい側面を見いだし、旺盛な執筆活動を行っている。『家康が最も恐れた男 直江兼続と関ケ原の義将たち』ほか著書多数。テレビドラマなどの時代考証や番組監修も数多く手掛ける

(ライター 手代木健)

[日経おとなのOFF2009年12月号の記事を基に再構成]