本能寺の変はここから始まった? 天下分け目の晩餐日経おとなのOFF

天下統一を目前にした織田信長が、盟友・徳川家康を安土城に迎えた。その世話役を命じられた明智光秀の用意した料理があまりにも豪華だったがゆえに信長を怒らせたという説もある。この伝説の「安土城の饗応」メニューとはいったいどんな味だったのか? 食文化史研究家の永山久夫さんが五品を再現した。

天正10年(1582年)、宿敵・武田氏は滅び、信長の天下統一はもはや時間の問題となった。同年5月、信長は武田征伐の戦いの功労者である徳川家康を安土城に招き、手厚くもてなすことにした。その饗応役を命じられたのが明智光秀だ。

真面目で融通が利かず神経質なところがある光秀と直情独裁型の信長は、日ごろからそりが合わなかったとされる。だが信長は彼の実力を認め、光秀は丹波、山城、近江・坂本などの所領を与えられる織田家筆頭の家臣となっていた。その信頼があっての饗応役への任命だった。

その日、光秀はここぞとばかり贅を尽くした宴を準備したが、それを見た信長はよもやの激怒。光秀は饗応役を解任され、ちょうど中国毛利攻めに出ていた羽柴秀吉の援軍として、中国への出立を命じられる。三国の所領は没収。その代わりとして、攻め取ってもいない毛利の土地を与えるという冷酷過ぎる命令を下した。饗応役を外され、領地は没収、その上ライバルの下について働けと命じられた光秀の屈辱はいかばかりだったろう。その約半月後、ついに光秀は運命の決断をするのである――。

徳川家康(当時40歳)
織田信長(当時49歳)
明智光秀(当時55歳)

家康をもてなすため3日間の饗応が予定されていた。写真は安土城に到着して最初の献立を『続群書類従』を基に再現したもの。本膳から五膳まである。右の菓子類は翌日の朝食用。(写真 朝日新聞社)
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