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東京ふしぎ探検隊

富士山に登山鉄道構想 過去には山頂までの計画も

2013/7/26

■高尾山と山中湖を結ぶ構想も

富士急行はかつて、富士山の北側を走る鉄道路線を計画していた。同社が申請を取り下げる際に提出した資料に、路線図が添付してあった(国立公文書館所蔵)

富士急行はほかにも、かつて富士山周辺で様々な路線を計画していた。国立公文書館で調べたところ、同社が戦後早々に提出した資料が残っていた。それは意欲的なプランだった。

1948年(昭和23年)、富士山麓電気鉄道(現・富士急行)は3つの区間の路線敷設を申請した。「富士吉田~御殿場」「河口湖~富士宮」「山中湖~浅川」だ。浅川駅とは現在のJR中央本線高尾駅のことだ。

高尾山の麓から山中湖へ線路を延ばし、さらには御殿場から河口湖を経由して富士宮まで走らせる。完成すれば富士山の北側を走る観光鉄道になるはずだった。

しかし申請書類には、運輸省の担当者が「実現は困難と思われる」と意見を書いていた。その理由は「我が国の復興発展に寄与すること大なりと認められるが、現状では資材その他の点に難色があり」。終戦から3年の段階では、時期尚早と判断されたようだ。

その後同社は計画を一部取り下げ、富士吉田から山中湖に焦点を絞る。しかしこれも実現せず、1968年(昭和43年)にはすべての申請を取り下げた。

■地下ケーブルカー構想、1930年代にも別の計画があった

富士山周辺では、古くから数多くの鉄道計画があった。村串仁三郎著「国立公園成立史の研究」(法政大学出版局)によると、明治時代末期から終戦までの間に、少なくとも7件の計画が提出されたという。

1935年に浮上した富士山頂までの地下ケーブルカー構想は大きな話題となった。申請書類には、当時の東京朝日新聞(9月11日付)が参考資料として添付してあった(国立公文書館所蔵)

この中で最も実現性が高いといわれたのが1935年(昭和10年)の地下ケーブルカー構想だ。

出願者は元貴族院議員で貴金属商の山崎亀吉。資金力があったうえ、「1940年(昭和15年)の開催を目指していた東京五輪に向けて」という大義名分もあり、世論は沸騰した。

「麓からわずか40分で山頂に到着」――。山崎らの地下ケーブルカー構想は「モグラ式ケーブルカー」などと呼ばれ、大きな話題となった。麓から山頂まですべて地下を走る構想で、5合目に乗換駅を設ける。5合目には観光ホテルを建て、頂上にも「石室のホテル」を計画していた。

村串氏によると、内務省は当初から反対姿勢を鮮明にしていたが、運輸省や国立公園協会などでは賛成論もあったという。

国立公文書館所蔵の申請書類をみると、山崎らが「相当な資産を有し」ているとして、信用力については一定の評価を与えていた。ただし「富士山は霊峰」であると否定的な意見が書き込まれ、さらには当時の新聞や鉄道省に届いた抗議はがきも添付。そこには「富士山にケーブル架設 絶対反対 もし架けたらぶっ壊す」と書かれていた。

結局、計画は立ち消えとなった。1936年(昭和11年)にいったん決まった東京五輪開催が、日中戦争突入で中止となったことで、大義名分がなくなったからだ。


1935年の計画申請書類には、鉄道省宛のはがきが添付してあった。「富士山にケーブル架設 絶対反対 もし架けたらぶっ壊す」と書いてある(国立公文書館所蔵)
河口湖に映る逆さ富士。凛とした姿が美しい(山梨県富士河口湖町)

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