神功皇后は実在した? 九州に数多く残る伝承地
作家の河村哲夫さん(67)は福岡県職員だった1993年、趣味の活動を始めた。九州の神功皇后の伝承地を訪ねる旅。「神功皇后は神話の人物と考えていて、それ自体に深い意味はなかった。海で釣りをするなどレジャーを兼ねてだった」
ところが気楽な趣味は、徐々に真剣な現地調査に様変わりする。没頭のあまり調査は2000年まで約7年続き、人生を賭けた探求になった。
心を捉えた理由の一つは、伝説の人物にしては伝承地の数が多すぎたことだ。記紀などの文献、市町村史や地域の口伝を手掛かりに一つ一つ調査。神功皇后を祭る神社に加え、伝承が由来になった地名、腰掛けたと伝わる石などを含めると山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎6県の広範囲に3000カ所もあった。
しかも各地の伝承は記紀の記述とほぼ一致。伝承地を線でつなぐと▽14代仲哀天皇に同行、熊襲(くまそ)討伐のため九州入り▽神の啓示後、天皇が急死▽皇后の熊襲討伐▽朝鮮半島の古代国家、新羅に出兵▽凱旋帰国、皇子出産――という古代の足跡をたどれた。
調査では、大和朝廷が自らの歴史を地方の民に押しつけた痕跡は認められなかった。「土地を訪ねて見聞きすると、名もない民が記紀成立の以前から各地で伝承を守り継ぎ、今に伝えていた」。成果をまとめた書籍「神功皇后の謎を解く」(原書房)を13年に出版。「神功皇后は実在したと確信している」と語る。
「神功皇后伝承を歩く」(不知火書房)の上下巻を14~15年に出した歴史作家、綾杉るなさんも実在説を支持する。09年から山口、福岡のゆかりの神社約110社と周辺を現地調査してきた。
根拠として、記紀に記されていない事柄を表す伝承が各地に残ることを挙げる。たとえば山口県下関市の忌宮神社の「奉射祭」は、仲哀天皇と神功皇后が居住した宮を新羅が襲った伝承を由来とする。新羅出兵の動機として考えられ「記紀を補完する数多くの伝承があることは実在のリアリティーを裏付ける」
さらに▽華々しい戦に関わるものだけでなく、凱旋後に産んだ皇子にここで母乳を与えたなど、生々しい1人の女性像を表す伝承も多い▽仕えた朝臣の末裔(まつえい)を名乗る人が今も神社や寺を守っている――点も肯定理由になるという。
神功皇后は戦前、紙幣の肖像になるほど著名な人物だった。それが戦後に一転、神話の人物と位置づけられたことに、綾杉さんは「戦後は歴史学で皇国史観の反動運動が起き、神功皇后は存在を消された」とみる。
伝承の現実味を裏付けるような遺構もある。福岡県那珂川町の古代水路「裂田溝(さくたのうなで)」。日本書紀によると、水路を掘っていると、大岩が塞がり作業ができなくなった。神功皇后が祈りをささげると、雷が岩を踏み裂き水路がつながったとされる。
この「裂けた岩」の可能性がある遺物が同町教育委員会の2000年代前半の発掘調査で見つかった。日本書紀の記述通り、花こう岩の固い岩盤があり、古代に開削した痕跡が発見されたという。
日本人の暮らしに神功皇后が今も影響を与え続けていることも、実在の可能性を強めている。
妊婦が腹帯を巻き、神社に安産祈願する日本独自の風習。皇后を祭神とする長崎県壱岐市の神社、聖母宮(しょうもぐう)の83代目宮司、川久保匡勝さん(45)は「懐妊中に外征した皇后は石を帯の間に巻き、体を冷やして出産を遅らせた。伝承が広く伝わり、安産風習として定着した。神話の人物だったとすれば、これほど影響力を持つだろうか」と話す。
近年では神功皇后の伝承をまちづくりに生かそうとする動きも出てきた。1級建築士の東久仁政さん(42)は公益財団法人福岡アジア都市研究所の市民研究員だった10年度、福岡市内の伝承地20カ所の一体的整備を訴える研究報告を発表した。
東さんは「皇后実在の是非はさておき、伝承は具体的で、人間性も感じられる面白いものばかり」と評価。「市民で各地の伝承を改めて学び直し、一体となって物語性をアピールすれば観光資源になる。同じ歴史を共有しているという連帯感も深まる」と期待をかけ、今後は同じ考えを持つ市民有志と連携して構想の実現を目指したいという。
(西部支社 諸岡良宣)
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