「アメリカから帰ってきて、九州大学大学院の人間環境学研究院という心理学系の大学院に赴任したんですが、そこでは、まずコホート研究(集団を追跡する研究)をしようとしたんです。アメリカの研究室にいた時に、大学院生が乳幼児のうちにスクリーニング(選別)できる尺度をつくって、これ日本だったらすぐできるなと思ったのがまずあって、1年間の出生が1000人ぐらいのとある町が乳幼児健診を改善したいと考えていて研究協力してくれることになったので、じゃあ、ここでコホートを作れないかと考えました。自閉症を発症した子の保護者で協力してくださる方が何人いるか分からないけれども、何年間かやって自閉症だけでも100人ぐらいの群を作れれば、いろんな多様性が見えるようになるんじゃないかと。結局、その態勢をとるにはちょっとお金もマンパワーも足りなかったんですが、その中で見えてきたこともたくさんあるんです」
まず、コホート研究というのは、ある集団を時間をかけて追いかけて、その間にどんな要因がどんな病気なり障害なりのリスク要因になるのか割り出してゆく息の長い研究デザインだ。条件を厳密にコントロールした臨床実験などが倫理的に認められないような分野では、最も強い証拠能力があるとされる。しかし、長い期間、追跡を続けなければならないため大変な労力がかかる。
では、失敗に終わったこの試みで得たこととはなんだろう。
「児童精神科の医師をしていただけでは分からないことに出会えたというのが大きいんです。これは京都にいた頃から伏線はあって、私、児童相談所のケースワーカーさんと一緒にいろんな家庭を訪問したりした経験がありました。医師としてクリニックで出会うのは、ものすごくせっぱ詰まって親が死ぬ思いでようやく連れてくるようなケースです。でも地域に出ると、うまく環境を整えることで医療に頼らずにすんでいる人がたくさんいるんです。医師は患者さんを治療することに醍醐味を感じるかもしれないけれど、むしろ早期に発見して、環境を整えてあげたほうがずっといいじゃないですか。自閉症へのベストプラクティス(最適な取り組み)は病院の外にあるというのがその時の発見でした」
「九州の町で、乳幼児健診に来る1歳半の子どもにずっと会い続けて、それでやはり予防が大切だという思いを新たにしました。スクリーニング検査をするのに反対する先生もいて、『早期発見をしても治るわけではないから』『早期発見したら気づかないで育てている親にショックを与えるから』というふうに心配されていたので、本当に注意してやっていきました。実際に、親御さんにお子さんの発達状況をお示しすると、やはりショックを受けて泣き出す方もいらして、でも、同時に、この子はこういうことが得意で、こういうのが好きだっていうのが分かってうれしいって喜ぶ、自分を奮い立たせるためにそうおっしゃるような方々も多かったんです。昨日、夫と家で乾杯したんですよって泣きながら言うお母さんがいました。やっぱり早くから発達の問題に気づけて、支援を受けることで、心の準備をしていただけることも多いと分かったので、そこからはいろいろ言われても、揺らぐことなくやり続けることができました」
繰り返しになるけれど、自閉症であることそれ自体、社会生活を難しくする。しかし、それ以上に、自閉症の影に隠れて見えにくい情緒や行動にかかわる合併症が、のちのち大きな問題になってくる。かつて、精神病院で半生を送らざるを得ないような自閉症患者が多くいたのは、雪だるま式に大きくなったうつや不安などの合併による部分が大きい。そのような転帰にならないようにするために、早期発見と早期支援、さらには環境整備が必要だ。神尾さんはそう強く考えるようになった。
もちろん、それを多くの人に納得してもらって実行に移すには根拠(エビデンス)が必要だ。神尾さんは、まさにその方向に足を踏み出す。
=文 川端裕人、写真 内海裕之
(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2020年4月に公開された記事を転載)
1958年、大阪府生まれ。発達障害クリニック附属発達研究所所長。児童精神科医。医学博士。1983年に京都大学医学部を卒業後、ロンドン大学付属精神医学研究所児童青年精神医学課程を修了。帰国後、京都大学精神神経科の助手、米国コネティカット大学フルブライト客員研究員、九州大学大学院人間環境学研究院助教授を経て、2006年から2018年3月まで国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所児童・思春期精神保健研究部部長を務める。現在は発達障害の臨床研究や教育・医・福祉の多領域連携システムの構築に携わる傍ら、診療活動や学校医および福祉施設の嘱託医を務めている。一般向けに『ウタ・フリスの自閉症入門』(中央法規出版)、『自閉症:ありのままに生きる』(星和書店)などの訳書がある。
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、肺炎を起こす謎の感染症に立ち向かうフィールド疫学者の活躍を描いた『エピデミック』(BOOK☆WALKER)、『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(ハヤカワ文庫JA)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、ブラインドサッカーを舞台にした「もう一つの銀河のワールドカップ」である『風に乗って、跳べ 太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。