病院に泊まり込んで撮影

18年1月に突然、オナニーマシーンのマネジャーから「闘病中のイノマーを撮影してくれないか」と連絡があり、そこから彼を追いかけることになったという。

「当時、既に『ハイパー ハードボイルド グルメリポート』を放送していたこともあり、『見覚えのあるやつがテレビでなんかやってるぞ』とマネジャーさんが気づいてくれたみたいで。ただ、イノマーさんには10年くらい会っていなかったのもあり、最初は僕も気が進まなかった……。『家、ついて行ってイイですか?』でも使われていましたが、喫茶店にいるイノマーさんに初めて会いに行った時は不安で一杯でしたね。ただ、イノマーさんの第一声が、『おまえAV監督みたいだな(笑)。タンポンズだろう』と。覚えてくれていたのは、すごくうれしかったです。

ラストライブとなった18年10月の豊洲PIT。イノマーは控室では苦しそうな様子を見せながらも、ステージに立った途端、生き生きとした姿でパフォーマンスを行った (C)テレビ東京
入院後、上出はイノマーの身の回りの世話も手伝いながら撮影を続け、「いつ来るんだ?」と常に聞かれるほど、関係性も深まっていった (C)テレビ東京

当初はライブのタイミングでお邪魔して撮ったりしていました。ただ、18年10月の豊洲PITのライブ後にイノマーさんの体調がガクンと悪くなり入院してからは、僕も病院に泊まりながら、身の回りのことを手伝いつつ撮影をしました。さすがに、『お前、仕事大丈夫か?』とイノマーさんも気遣ってくれるほどでしたね。

彼はガンで舌をほとんど摘出しているため、言葉をうまくしゃべれない。そのため意思疎通ができる人が減っていくなかで、しつこいくらいに病室に居座る僕の存在がだんだん意味を持っていったのかなと思います。いわゆる一般的な取材者と取材対象者という関係とは異質なものになっていました。だからこそ、ステージの上でカッコいい姿を見せ続けてきた人間からすると、闘病中の見せたくない姿はたくさんあったと思うんですけど、それさえも撮影することを許してくれたのかなと。

彼の最期のシーンは、正直やっぱり録画を止めそうでした。僕も人が死ぬ瞬間に立ち会ったことがなくて、まさにその瞬間なので。それを撮るなんてことは前代未聞だろうけど、ここまで撮ってきて、この瞬間に録画を止めたら、僕もう一生ダメだろうなと思ったんです。ここで止めたら、自分はなんのためにここにいたのか分からなくなってしまう。ドキュメンタリーを撮る人間として。使う使わないは後で考えればいいと自分に言い聞かせて回しました。

本来、この映像は『ハイパー ハードボイルド グルメリポート』で流そうと思っていたんですけど、編成からOKが出なくて。そんななか、イノマーさんの1周忌だった昨年末に、もともと放送された『家、ついて行ってイイですか?』のイノマーさんの回(※)を、『TVerとかで再配信できませんか?』と、プロデューサーの重定(菜子)先輩にチラッと言ったんです。すると、『だったら、ちゃんと上出が撮ったやつを使って、何かやったらいいんじゃない』と。地上波ではギリギリのシーンも多いんですけど、重定先輩が覚悟を持って編成に掛け合ってくれたみたいで、すごく感謝しています」

※20年4月6日放送分。(取材日の19年12月23日に)下北沢駅で出会ったヒロさんの家に付いていったところ、4日前にパートナーのイノマーさんが亡くなったことが明かされていった。

彼がテレビ界を目指したのは、大学時代の経験が大きい。早稲田大学法学部に入学し、少年犯罪などを学んだり、NGOに参加して海外にも行ったそうだ。

「大学の授業は、常に1番前の席に座るほど真面目に受けていましたね。法学部で少年犯罪を学ぼうと思ったのは、自分も高校時代に荒れた時期があったことも大きい。勉強のため、全国の少年院や刑務所などを回ったんですけど、『困った奴と言われている人は、困っている奴なんじゃないか』ということが、自身の経験も含めて改めて理解できました。20歳頃からはNGOにも参加し始め、中国のハンセン病の隔離村に行くように。不勉強から生まれる差別の実態を目の当たりにして、考えさせられることは多かったですね。

テレビ界を目指した理由は、こういった経験を積むなかで、人に何かを知ってもらうことがどれだけ大切かを痛感したから。それを背負えるのはメディアしかないなと。ただ、正直テレビは『NHKスペシャル』と『金曜ロードショー』しか見てなかったんですけど(笑)、それも正直に話した上で、面白がって採用してくれたのがテレビ東京でした」

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