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ベニヤ板にクレヨンで描いた17歳 一流の大人に導かれ

名古屋画廊 中山真一

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NIKKEI STYLE

才能や感性を鋭く問われる画家らアーティストは、若き日をどう過ごしたのか。ひとつの作品を手がかりにその歩みをたどる連載「青春のギャラリー」。ガイド役は名古屋画廊社長の中山真一さん(63)です。中山さんは「いつの世もアーティストが閉塞感を突破していく。自分を信じて先人を乗り越えていく生き方は、どんな若者にも道しるべを与えてくれるのではないか」と語ります。(前回は「33歳までの長い助走 回想の画家、重ねた心のスケッチ」

なんとも異様な雰囲気の画面だ。うしろむきに立った女。両腕をうしろに組んで、なにかを見つめているのだろうか。ゴツゴツとデフォルメ(変形)された筋肉表現。女には、強い意志があるようだ。それにしても、ただならぬ印象は画面全体から放たれている。女が前むきなら、顔から足までの各部位が、ものを言いすぎることになったかもしれない。女はむせかえるような周囲の空間と一体になっている。あくまで画面全体を問題にして見るべき絵なのであろう。大きなベニヤ板にクレヨンで描くというめずらしい組み合わせ。クレヨンは、ベニヤの板目をつぶしながら、くすんだ色調でこれでもかと画面全体に分厚く塗りこめられた。見るほどに、有無を言わせぬ若い力が迫ってくる。

複雑な家庭環境、中2で転機

この作品《起(た)つ》(1964年作、クレヨン・ベニヤ板)の作者である木下晋(きのした・すすむ)は、1947年(昭和22年)に富山市で生まれた。戦後2年目、団塊世代の走りである。終戦間際の富山大空襲で街は焦土と化していた。焼け野原の情景は、幼い目にいやがおうでも焼きつくこととなる。ひとが芸術家として立つに際し、木下がもっとも得がたい感覚だとする「生と死の境界」が、早くから無意識のうちに刻まれていった。「赤ちゃんが泣いている。怖いよ、父ちゃん」。幼少のころ、床につくと家のまわりの空き地から赤ん坊のすすり泣きが聞こえてきたという。少年期になると、東に見える雄大な立山連峰、その急峻(きゅうしゅん)な岩稜や、西日で赤く燃えたつ雪の山頂に、いつも心をゆさぶられた。「俺はあの山を越えていくんだ」

家は貧しかった。家庭環境も複雑である。父親はとび職。弟は幼くして餓死、兄は家出をくりかえす。自身も小学生のときパンの万引きで児童相談所のやっかいに。3度目の結婚であった母は放浪癖があり、木下が中学1年のとき長い放浪から家に帰ってきた。家事ができず風体もみすぼらしくて、実の親子でもまったくなじめない。山裾の竹やぶの中にたつ小さな番小屋に住んでいた小学校時代など、母性とは竹やぶのなかで感じるものであった。静かで母親の胎内にいるように思えた。将来の夢といっても、経済的な事情で高校には行けないだろうし、背広をきたサラリーマンになるのはなおさら考えられない。自分の得意なもので身を立てていこう。それは何なのだろうか。

中学2年のとき、転機がおとずれる。美しい女性美術教師Sが学校に現れた。1年生のとき美術の成績は5段階評価の「1」。課題作品を提出せず、授業にもあまり出ていなかった。夏休み前、S先生から誘われる。「木下君。夏休みを返上して学校に彫刻を作りに来ないかな」。毎日ラーメンをごちそうしてくれるとも。家にいても貧しさゆえ昼食ぬき。ならば学校へ行こう。美人先生にも会える。教えられるでもなく男性モデル(同級生)をさまざまな角度から凝視した。遠慮もなく「こっち向け」「あっち向け」と。ひと夏かけて作った粘土による頭部彫刻。それを石膏(せっこう)に取って、彫刻家で富山大学教育学部助教授・大瀧直平のもとへS先生が連れていってくれた。すると大瀧は地元の「少年少女美術展」に応募することをすすめてくれる。結果、みごと特選をとることとなった。

鷹揚(おうよう)な性格の大瀧は、毎週土曜日の午後、大学の研究室を卒業生や一般市民に開放し、毎回15、6人が彫刻やデッサンに取りくんでいた。木下はここで初めて女性の裸(モデル)をみる。母親は幼少期から家を出ていたので、母のそれさえ見たおぼえがなかった。また、大瀧の研究室は学部を越えた教官陣のサロンとなっており、土曜日の午後は彼らが集まって自分の専門分野なりの見方で作品を評するのが、木下にとってたいへん刺激的に思われた。以後、毎晩のように研究室に通わせてもらい、彫刻を学ばせてもらっている。

S先生についで木下の才能に気がついた大瀧は、ほかにも何かと気にかけてくれた。自身の師である彫刻の大家・木内克のアトリエで指導をあおぐよう、東京への夜行列車の往復旅費をだしてくれる。14時間かけて東京へ朝早く到着すると、家出少年とまちがわれて警察に拘束された。天下の木内のアトリエに行くのが本当だとわかると、以後年2度ほどの上京では朝、いつも警察署で温かい食事やお茶を出してくれることに。木内は中学生を同じ芸術家どうし、自身と対等な仲間としてむきあってくれた。すっかり感激した木下は、上野の国立西洋美術館にあるロダンやマイヨールをしっかり見よとの指導にしたがい、いっそうの学びを得ている。

中学3年のとき、父親を工事現場の事故で亡くした。実質的に母ひとり子ひとりの境遇、それも疎ましくてならない母のめんどうを木下が見なければならないということに。亡き父は、親戚中からも嫌われる母を、いつも取っ組みあいの夫婦げんかをしながらなぜ追い出そうとしなかったのだろう。木下は、ひとの心の闇ふかくを見ようとする習性が身についていった。受験勉強はほとんどせず、しかし経済的なメドをつけてなんとか地元の農業高校に進学する。ただし、そのころ彫刻制作を断念した。材料や設備にカネがかかりすぎる。美術なら、あとは絵画しかない。でも、油彩画はやはり絵の具代がたいへんだ。水彩画では小・中学生の延長になってしまう。どうしようか。

五輪前日に「木下、おまえ何を」

彫刻家は無理でも、いずれなんとか油彩画家になろう。それにしても、いまは絵の具代がまかなえない。油絵らしく見せられる安価な材料はなんであろう。それはクレヨン画だという結論に至る。クレヨンなら知りあいの小学校の先生から、生徒がつかった残りを山ほどもらうことができた。キャンバスはやはり高価なので、工事現場からくすねたベニヤ板に描こう。1964年(昭和39年)、高2の夏休みに父親ちがいの姉をモデルに本作品《起つ》を描く。大瀧に見せると、やはり木下の才能を直感し、東京の作家にみてもらいなさいと旅費をくれた。木内を訪ねると、「絵だったら麻生三郎君に」と武蔵野美術大学教授の洋画家を紹介される。さっそく麻生のアトリエに自作をもちこむと、麻生は論評らしい論評をしない。かわりに、いま作品受付中の自由美術家協会展に応募すべく東京都美術館にすぐもっていきなさい、この絵なら必ずや入選するといって紹介状を書いてくれた。同展には戦前から絵画作品でも油彩画にこだわらぬ伝統があったのも幸いする。

富山へもどって何日かすると、英語の授業中に担任教師が「木下、おまえ何をやらかしたんだ」と血相をかえて教室に飛びこんできた。なにか問題をおこしたにちがいない、と。新聞記者が学校におしかけてくるという。ところが、校長室で記者会見が急遽(きゅうきょ)設定される。翌日、くしくも東京オリンピック開会式の日、新聞に「木下君みごと入選 自由美術展 高校生で初めて」「顔いっぱいに喜びの木下君」の見出しがおどった。人生の逆転サヨナラ満塁ホームランを放った気分に。ただ、自分は中学二年生から本格的なデッサンを学んでいたので、本当はそれほど驚くことではないと冷静にとらえもした。同展史上最年少、17歳の若さとはいえ、同級生たちとはまるでちがう人生経験も自分のなかに落としこんでいる。学校の通知表とは別に、なにごとも独立独歩で自分自身をきたえてきたのだ。当時、名のある公募展は入選すればプロの画家と認められるほどの権威があった。地元なら名士あつかいもされる。しかし、木下の心の中はちがっていた。

「自由美術展には、わけもわからず麻生三郎先生にいわれるまま出品してみた。出品料など麻生先生がそっと払ってくれていたのだろう。無我夢中で描いた作品。使いすてられたチビた短いクレヨンでも、描きにくいということはなかった。時間がないとかいろいろ条件をつけたがる人間は、けっきょくその分野の才能がないということ。自分の取りくんでいることが本当に好きでないと、決してものにはならないと思う。くわえて、なんらか知性をみがかなくてはならないのではないか。学校の成績の話とはちがう。どんな経験や思索も、しっかりと自分のものとしていかねばならない。その点、大瀧先生、木内先生、麻生先生、それに大瀧研究室のサロンで、それぞれの分野の一流のひとたちと交流させてもらったのが、自分の画家人生にとって決定的であった。また、大瀧研究室では、正式な鋳造作品ではないとはいえロダン、ブールデル、マイヨールという近代彫刻三大巨匠のブロンズ作品などに身近に接することができたのも、たいへんありがたかったと思う。いずれにせよ、どんな分野でも一流を知れば、どこか自分の専門分野に通じてくるもの。さらに言えば、一流のひとはけっして安易な批評などしない。優しく見守ってくれるものだ」

「天才画家の出現」とされてからほどなく、親族の相続問題にまきこまれて収監されてしまうなど、けっきょく高校を2年で中退する。麻生からはとにかく高校を卒業さえすれば武蔵野美術大学に特待生で入れ、生活費も心配しなくていいとまで言われていたものの、人生はふたたび、それもいっきに暗転した。だが、看板職人やパン職人などをへながら必死に油彩画を制作していく。いつも不思議な縁にささえられつつ、絵画の、人生の力をいっそうつけていき、ついには30代なかばで独自の鉛筆画に取りくむようになった。自分の方法論にたどりついたのである。以後、それをもとにますます自身の世界をひろげていった。こんにち木下は、中学や高校の美術教科書に作品や本人が紹介されるばかりでなく、中学の道徳教科書でとりあげられるなど、より大きく社会的な存在となっている。

(敬称略)

中山真一(なかやま・しんいち)
1958年(昭和33年)、名古屋市生まれ。早稲田大学商学部卒。42年に画商を始め61年に名古屋画廊を開いた父の一男さんや、母のとし子さんと共に作家のアトリエ訪問を重ね、早大在学中から美術史家の坂崎乙郎教授の指導も受けた。2000年に同画廊の社長に就任。17年、東御市梅野記念絵画館(長野県東御市)が美術品研究の功労者に贈る木雨(もくう)賞を受けた。各地の公民館などで郷土ゆかりの作品を紹介する移動美術展も10年余り続けている。著書に「愛知洋画壇物語」(風媒社)など。

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