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青春のギャラリー

33歳までの長い助走 回想の画家、重ねた心のスケッチ名古屋画廊 中山真一

2021/4/9

青春のギャラリー

藪野健《僕は思い出す》(1976年、油彩・キャンバス、97×162センチメートル、フジ・メディア・ホールディングス蔵)
才能や感性を鋭く問われる画家らアーティストは、若き日をどう過ごしたのか。ひとつの作品を手がかりにその歩みをたどる連載「青春のギャラリー」。ガイド役は名古屋画廊社長の中山真一さん(63)です。中山さんは「いつの世もアーティストが閉塞感を突破していく。自分を信じて先人を乗り越えていく生き方は、どんな若者にも道しるべを与えてくれるのではないか」と語ります。(前回は「模倣ではない未来を創造 米先導のミニマルアート画家」

記念撮影でもするために、うしろの学校らしき建てものから出てきたひとたちであろうか。みなこちらを見つめている。落ちついた緑に赤茶けた土肌。土肌の色と一体になったかのような建物群、その奥には廃虚となった建物がそびえる。作者にスペイン留学の経歴があると知れば、やはりこの絵は彼(か)の地を描いたものであろうか。廃虚は20世紀スペイン内戦の時代にできたのかもしれない。

それにしても、どこか特定の地ということではなさそうだ。土地には記憶というものがあろう。風土や人間が生きた記憶。一方で、描く人間にも記憶がある。画家は土地の記憶に思いをはせ、自分自身の記憶をもたどったか。雲ひとつなく、ありえないほどに濃くて鮮やかな群青の空が、2つの記憶をむすびつけ、時空を超えて見る者にさまざまな回想をうながそうとしている。

この作品《僕は思い出す》(1976年作、油彩・キャンバス)の作者・藪野健(やぶの・けん)は1943年(昭和18年)に名古屋市で生まれた。その年、画家であった父親が新文展(現・日展)で特選となっている。戦後2年目、疎開先から4歳で名古屋へもどると、戦中の空襲で街は廃虚であった。それが人生ほとんど最初の記憶としてのちのちまでも残る。

戦前の街並みはどんなであったろうと想像をめぐらせてもいた。そんな時代、1トン爆弾によってできた池で泳いだ。小学校の校舎はバラックで、しかも不足ぎみ。授業時間の半分くらいを生徒たちみな東山動物園や植物園、天文台ですごす。なんでも自分の頭で考えざるをえない。

戦争が終わり、社会はなんらかの明るさをとりもどしていた。貧しさのなかにも、おとなたちは楽しそうにみえる。工業生産がはかどらないぶん、街なかの河川も澄んだ輝きをみせていた。一方で、瓦礫(がれき)による廃虚は死ととなりあわせでもある。夜は深い闇。空襲で亡くなったひとたちのことが想(おも)われてくる。自身によく微熱がでたこともあって、「死」はいっそう身近にあった。すべては混沌の世界だったのである。

生きてみたい時代を画面に

63年に入学した早稲田大学では、美術史を学んでいたものの当初は建築家をめざした。20歳のころ、無性に油彩画を描きたくなったと父親に伝えると、油絵の具など画材一式が下宿に送られてくる。父親が画家にしても、絵画は独学。大学院でもひきつづき美術史を学んだが、卒業論文も修士論文もガウディら建築家についてであった。しかし、27歳でスペインの首都マドリードに留学し、建築家志望からついに画家のほうで立つことを決意する。

スペインでは、自然や街の景観にくわえ、プラド美術館でみるベラスケスやゴヤなどにふかい感銘をうけた。大学時代の恩師、坂崎乙郎(美術史家)が、ヨーロッパではフランスのルーヴル美術館よりむしろプラド美術館のほうが人間の歴史がきざまれていて魅力的だと語っていたのを思いだす。

建築は自分のイメージするとおり実現しようにも、おそらくはさまざま制約が多いであろう。絵画なら自分の行きたい土地や出会いたい人々、生きてみたい時代をひとつの画面のなかに構成して実現できそうだ。当初は、好きな建築物の内部を、スペイン的な色彩ともいえる褐色調で描いた。建物内部の柱や階段などのしつらえが、見る者の視線を迷宮へと誘うように連なっている。どこか幻想性のある作風であった。

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今はない建物も生き生きと
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