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青春のギャラリー

2021/3/12

青春のギャラリー

1958年(昭和33年)、横浜港から南米行きの移民船に夫婦でのりこみ、ロサンゼルスで下船。大陸を横断するバスでニューヨークへと到着した。当初の1カ月は、個展開催のため日本に一時帰国していた抽象画家・岡田謙三のアパートに住まわせてもらう。言葉に不自由しながらも多くのひとの親切にめぐまれた。美術学校ちかくにニューヨーク近代美術館もあり、よく通う。自国の同時代アートもたくさん展示されていた。当時、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコらによる抽象表現主義が全盛期をすぎ、アメリカでは次代のアートがさかんに模索されている。芸術の都の地位をパリから奪っていたニューヨークからすれば、次代のアートもひきつづきニューヨークで開花させなければならなかった。

ほどなくアメリカ現代美術は「黄金の60年代」をむかえる。大衆文化をだいたんに取りこむポップアートなどに先行し、筆のタッチや色数など造形要素を極限までそぎ落とそうとする純抽象的なミニマルアート(当初まだその呼称はなく、桑山は「ピュアアート」としていた)の運動が勃興した。抽象モダニズムの究極として、なんら再現することも連想させることもない、純粋な視覚というものを表現しようとする試みである。桑山は、その影響をうけたというより、親友のドナルド・ジャッドやダン・フレイヴィンらとともに、その真に新しいアートをみずから開拓していった。もともと美術批評家であったジャッドにもっとも影響を与えたのは桑山だと、今では定説になりつつある。

説明のたぐいは何もいらない

当初は日本画の顔料の使用しか知らず、それを使ったミニマル作品を制作していたものの、やがてキャンバスにアクリル絵の具で描くようになった。近所に住み親しくしていた現代美術作家のサム・フランシスのすすめである。それにより1961年(昭和36年)、いまだかつて人類が見たこともないような本作品《無題》が誕生した。ニューヨーク到着後3年目、29歳のこと。60年代の幕開け早々に、未来をきりひらく圧倒的なアートが若き桑山の制作によって出現したのである。同年の初個展でたちまちその評価を得て、さすがアメリカ、ある美術館の館長が初日に大作の購入を決めてくれた。

「ポロックやロスコらは偉大だけれども、乗りこえていかねばならない存在だと思っていた。ポロックらはもう過去のひとではなかったか。日本の作家はみな同じようなことをしている。模倣がアートだと思っているようだが、それはちがう。アートは、模倣ではなくフューチャー(未来)をつくらねばならない。過去になかったものをつくるのがアートのはず。一見して、これなんだろうと思うような。自分がフューチャーをつくらねば。そして当時それは、抽象表現主義の行き方とは反対に、ミニマルアートではなかったか。アートに説明のたぐいは何もいらない。アートの核心のみを表す制作をしていこうと思った」

その後ミニマルアートは桑山の輝かしい未来をも照らしだす。70年代以降もシルバーやゴールドの単色でそのさらなる展開をしめした。21世紀になっても、アルミニウムやチタンを使って、やはりだれも見たこともないようなアートで私たちを未来へと連れていってくれるかのようだ。桑山は89歳のこんにちに至るまでも、年齢とは無縁な、というか年齢とともに、その年代でなければ出せぬ何かを加えながら、時代をこえる永遠に新しいアートを創造しつづけてきたのである。(敬称略)

中山真一(なかやま・しんいち)
1958年(昭和33年)、名古屋市生まれ。早稲田大学商学部卒。42年に画商を始め61年に名古屋画廊を開いた父の一男さんや、母のとし子さんと共に作家のアトリエ訪問を重ね、早大在学中から美術史家の坂崎乙郎教授の指導も受けた。2000年に同画廊の社長に就任。17年、東御市梅野記念絵画館(長野県東御市)が美術品研究の功労者に贈る木雨(もくう)賞を受けた。各地の公民館などで郷土ゆかりの作品を紹介する移動美術展も10年余り続けている。著書に「愛知洋画壇物語」(風媒社)など。

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