日経エンタテインメント!

解散を描いたわけではないのに

10月3日には88分に編集された映画の試写会が行われる。ここでアラン・クラインがメンバー以外の人物が映っているシーンをカットするよう要請したといわれる。グリン・ジョンズは回想録『サウンド・マン』のなかで「ビートルズと他の人々のやりとりがカットされてしまい、映画が台無しになってしまった」と語っている。

12月に入る頃には、この映画はユナイテッド・アーティスツから配給されることになり、ジョンズは12月中旬に「アクロス・ザ・ユニバース」などを加えてアルバムの再編集を開始。年が明けた1970年1月に追加レコーディングを行ってひとまず仕上げる。だがこれもメンバー間の対立などでお蔵入りしてしまう。

その後、ジョンがフィル・スペクター(「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる重厚な音作りで60年代から70年代の音楽シーンをリードしたプロデューサー)にアルバムのプロデュースを依頼。ここでグリン・ジョンズはお払い箱になる。おそらくこの頃に映画とアルバムのタイトルが『レット・イット・ビー』に変更されたのだろう。

映画の公開が迫るなか、3月6日にはジョージ・マーティンがプロデュースしたシングル「レット・イット・ビー」が発売。この時ものちの映画とは異なるシーンを使ったプロモーション・クリップが制作されている。

フィル・スペクターはグリン・ジョンズが1月に再編集したアルバム『ゲット・バック』をもとに、4月2日にアルバム『レット・イット・ビー』を完成。「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」「アクロス・ザ・ユニバース」「アイ・ミー・マイン」にはオーケストラや女性コーラスが加えられた。最終段階で「オーバーダビングなしのライブ演奏でアルバムを作る」というプロジェクトのコンセプトが破壊されてしまったのだ。クラインのやり方に異議を唱えていたポールは詳細を知らされておらず、怒りを爆発させる。

ポールはさらに、『レット・イット・ビー』の発売を優先させようとするクラインと衝突。4月10日に初のソロアルバム『ポール・マッカートニー』のプレス資料でビートルズ解散を公表する。

皮肉なことに、そのニュースが世界中を駆け巡るなか、5月8日に英国でアルバム『レット・イット・ビー』が発売され、5月20日に同名映画が公開。解散を描いたドキュメンタリーとして鑑賞されてしまい、大ヒットするのだ。

こうしてビートルズ解散という事実が世界中で受け入れられていくなか、12月31日にポールはロンドン高等裁判所に「ビートルズ解散とアップルでの共同経営の解消」訴訟を起こし、翌71年3月にポールが勝訴。ジョン、ジョージ、リンゴは上告を断念し、ビートルズ解散が法的に確定する。解散騒動の最中、70年3月にリンゴは『センチメンタル・ジャーニー』を、4月にポールは『ポール・マッカートニー』を、11月にジョージは『オール・シングス・マスト・パス』を、そして12月にジョンは『ジョンの魂』を発売。メンバー4人はそれぞれの道を歩みはじめることになる。

制作過程から見れば明らかなように、映画『レット・イット・ビー』はメンバー間の不和が記録されてはいたものの、ビートルズ解散のドキュメンタリーとして制作されたものではなかった。だがプロジェクト全体に責任を持つプロデューサーが不在だったことで、アルバム発売が先送りされ続け、いつしかポール対クライン(ジョン、ジョージ、リンゴ)の抗争が勃発し、ビートルズ解散報道のなかで映画が公開されたことで、世間では「ビートルズ解散を描いた映画」としての評価が定着してしまったのだ。

次のページ
ポール・マッカートニーのリベンジ