合従のリーダーである蘇秦が、表だって秦に仲間を差し向けるようなマネはできません。まずは張儀が面会を求めてくるように仕向けながら粗略に扱い、地位の違いを見せつけます。さらにその裏で、自分の家来を呼び、秦に向かう張儀を追いかけ、彼が出世するまで金銭の面倒などをみるよう言い含めます。張儀を発奮させ、確実に秦で実力を発揮させるための作戦でした。
蘇秦の策は的中します。秦の恵王に重用されることになった張儀は、それを見届けたかのように立ち去ろうとする恩人を引き留めます。そこで彼はその人物が蘇秦の家来であること、なぜ蘇秦が自分に冷たくしたのか打ち明けられました。張儀は「私は蘇秦の術中にあって、しかも気づかずにいました」と語った上で、誓います。
 蘇君の時、儀何ぞ敢(あへ)て言わん。
蘇秦が健在である間は、私は決して彼を裏切ることは言わない――。張儀唯一の信義に基づいた心底からの叫びであったと思われます。

張儀は秦の宰相となり、各国に秦との協調を呼びかけますが、最初は苦労します。張儀は相手がなかなか動かないとみると、本国に通報して軍を動かし、各地で衝突を起こしてその強さをみせつけるようにしました。その上でふるった弁舌は、蘇秦と対照的です。まず相手の国の弱点を数字をあげて指摘し、秦に服従しなければ他の周辺国に攻められると、とことん危機感をあおります。ほとんど脅迫でした。

明白なウソもいといません。楚の懐(かい)王には、斉(せい)との盟約を破棄すれば、秦は「商於(しょうお)の地六百里」を献上すると約束し、それを信じた王がその通りにすると、張儀は楚の使者に「奉邑(ほうゆう=自分が与えられた土地)六里」をどうぞ、と言い放ちます。「商於六百里」は詐欺やいかさまの例えとなる故事になりました。

当時の楚を支えていたのが以前の連載で取り上げた屈原(くつげん)だったのですが、懐王は彼を遠ざけ、張儀にかき回されたあげく、秦の地で命を落とします。張儀はかつて楚で盗みの疑いをかけられた恨みも晴らしました。

やがて蘇秦が死ぬと、張儀は、もはや「借り」を意識せず、精力的に各国を巡って連衡を説きました。相手の国を赤ん坊や鳥の卵に例えてまで強大な秦に従うよう迫り、「一詐欺」などと蘇秦をおとしめる発言も残します。その説得を受け入れる君主もおり、張儀は秦の功労者となりますが、やはり王以外の群臣には嫌われます。身の危険を感じた張儀は、魏(ぎ)に移って策謀を巡らすことを秦の王に願い出て出国し、その地で病死します。

自称「策士」はニセモノ

ただ秦に屈すればよいのだという張儀の主張はあまりに安易で、力を合わせて秦に対抗しようと訴えた蘇秦の方がはるかに高い志をもっていたように思えます。弁論術は、プラスを数え上げ相手を勇気づけるような蘇秦と、マイナスをあげつらって脅す張儀とでは、どちらが上でしょうか。これは現代社会にも通じますが、意外に判定が難しいかもしれません。のちに秦が天下を統一するという結果からみると、最大の敵である楚を衰退させ、秦の覇権を強固にした張儀の功績は小さくありません。

国でも会社でも、組織の中には策士と呼ばれる人がいます。でも、蘇秦・張儀のスケールの大きさは並外れたものがあります。誰も気づかぬうちに、相手をはめている、そんなやり方ができるのが本当の策士かもしれません。人前で策士を自任したり、そう見られるようにふるまったりしている人物は、大した策士ではないようです。

司馬遷は張儀列伝を結ぶにあたり、張儀の策謀は蘇秦より甚だしかったのに、世評が蘇秦に厳しいのは、張儀が自説の実現のために蘇秦を中傷したからだとはっきり書きました。ライバル関係では、相手より長生きした方が有利な点があるのは確かで、そこに司馬遷はきちんと配慮しました。ただ最後の一文は、さすが司馬遷というほかありません。「之(これ)要するに、此(こ)の両人は、真に傾危(けいき)の士(=本当に危険な人物)なる哉(かな)」

吉岡和夫
1939年(昭和14年)千葉県生まれ。横浜国大経済卒。東海銀行(現在の三菱UFJ銀行)に30年間勤務。書家の古谷蒼韻氏に師事。雅号は「泰山」。中国「司馬遷史記博物館」(2016年開館)の顧問も務める。著書に『史記を書く』(1996年)、『毒舌と名言の人間学』(2005年)など。名古屋市在住。

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