日経ナショナル ジオグラフィック社

1890年代、非常に組織だったロビー活動団体である禁酒連盟(ASL)が、禁酒キャンペーンを後押しした。酔っ払いのたまり場で祈る者もいれば、酒場を物理的に襲う者もいた。活動家のキャリー・ネーションは、1900年代におので酒場を破壊して回ったことで名をはせた。

「ドライ(禁酒法の支持者はこう呼ばれた)」な米国を求める声、つまり禁酒法を求める声は1910年代になっても止まなかった。

第1次世界大戦の影響により、戦争中のアルコール禁止を議会が承認すると、禁酒派は勢いづき、憲法修正による禁酒を求めて、議会に圧力をかけ続けた。修正は上下両院で承認され、1919年1月、全米の4分の3の州が批准して成立。1920年1月から効力を持つことになった。ASLのウェイン・ウィーラーは、下院議員のアンドリュー・ボルステッドと協力して、新たな修正がどう適用され、施行されるかの概要を示すボルステッド法(正式には国家禁酒法と呼ばれる)を書き上げた。

参政権を得た米国人女性たちにとって、1920年代は刺激的な時代だった。都市部では、仕事に就く若い女性が増え、都会での自立した生活を楽しんだ。街のもぐり酒場で、男女が一緒にグラスを傾けることもその一つだった(GAMMA-KEYSTONE/GETTY IMAGES)

密輸と密造が横行

この新法を、金もうけのチャンスと見る者たちが出てきた。米国は、蒸留酒を作る国々に囲まれている。カナダのウイスキー、カリブ海のラム酒。密売人がアルコールを米国市場に潜り込ませるには、資金、輸送手段、腕力があればいい。「喉が渇いた」米国人たちは、値段が上がっても酒を買うことが予想され、莫大な利益が見込まれた。

密売業者は全米の都市で暗躍した。デトロイトでは、カナダから入ってくる酒の流通を「パープル・ギャング」が支配した。ニューヨークでは、イタリア系移民が五大ファミリーを作り、街は「ウェット(禁酒法の反対者はこう呼ばれた)」、つまり酒が手に入る状態のままだった。

1933年12月5日の禁酒法廃止後、初めてビールを積み込み、ニューヨーク市のルパート醸造所の門を出るトラック(ULLSTEIN BILD/GETTY IMAGES)

シカゴでは、「スカーフェイス」の異名を取ったアル・カポネとジョニー・トーリオが、市中の酒の流通を管理するマフィア組織「シカゴ・アウトフィット」を設立した。カポネは犯罪によって財を成した。ある資料によると、彼の年間収入は6000万ドルあったと推計される。密売の規模が拡大し、複雑になると、ギャングたちは組織的に団結し始め、弁護士、醸造業者、船長、トラック運転手など、多くの人を雇い入れた。さらには、操業を中止した醸造所を買い取り、販売のために自ら密造酒を作り始めた。

当初、ギャング組織は活動を地元の一地域に限定していた。しかし、それぞれが勢力の拡大をもくろみ始めると、間もなく対立と紛争が生まれ、銃撃、爆破、殺人などの暴力沙汰が頻繁に起きた。

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ジャズエイジともぐり酒場