
今から100年前の1920年1月、米国で憲法修正第18条が発効され、米国内でのアルコール飲料の醸造と販売は違法になった。推進派はこれを「高貴な実験」と掲げ、全米の禁酒法支持者が称賛した。
元野球選手で、禁酒推進に貢献したビリー・サンデーは、1万人の聴衆を前にこう語った。「今夜、午前0時を回れば、新しい国が生まれます。明晰(めいせき)な考えと好ましいマナーの時代が始まるのです。スラム街はすぐに過去の遺物になるでしょう。刑務所や少年院は空っぽになり、工場へ姿を変えます。男性たちは皆まっすぐに歩き、女性たちは皆ほほ笑み、子どもたちは皆笑い声を上げるでしょう。地獄の門は、永遠に閉ざされたのです」
その後、禁酒法は10年以上続いた。しかし、サンデーをはじめとする禁酒法の推進派が約束した「新しい国」がやって来ることはなかった。

19世紀からあった禁止の動き
修正第18条は1919年1月に成立し、「酒類の製造、販売、輸送」および48州(当時)における輸出入を禁じた。米国議会は数カ月後、ビール、ワインなど当初は明確には対象に含まれていなかった他のアルコール飲料もカバーする内容のボルステッド法を可決。ボルステッド法は、医療用や宗教儀式でのアルコールの使用など、わずかな例外は認めていた。しかし、この法律は酒を飲む側ではなく、提供する側を対象としていたため、酒の所持と飲酒は合法のままだった。

禁酒法の歴史は19世紀までさかのぼる。当時は宗教団体や、米国禁酒協会などの社会団体が「アルコールの災い」や酒浸りの状態を問題視していた。1850年代、米国メーン州など数州でアルコール禁止法が試されたが、最終的には地元の反対で覆った。
禁酒法導入の流れのなかで、大きな役割を果たしたのが女性団体だった。運動家たちは、酒に酔った夫が妻や子どもたちを殴っており、飲酒が家庭内暴力に拍車をかけていると主張した。禁酒法の支持者は、アルコール乱用が貧困の原因だと論じた。
1869年に禁酒党が結成されると、1870年代には同党が展開する運動を支援しようと、キリスト教婦人矯風会(WCTU)が、アルコール禁止を訴える大々的なキャンペーンを開始。19世紀の用語で、あらゆるアルコールを断つ人を指す「絶対禁酒者」(Teetotalers)は、ホワイトハウスにもいた。ラザフォード・B・ヘイズ大統領と妻のルーシーは、酒を口にしなかっただけでなく、人にも出さなかったという。