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命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり――。「西郷南洲遺訓」で紹介されている西郷隆盛の言葉とされる一節だ。最後の「金」の部分はいったん置くとして「名もいらず」のくだりは何となく政治家、田中角栄と重なり合う。自分を飾らず、裸になって人と向き合う。捨て身の生きざまこそ、角栄の真骨頂だった。側近などの証言をまとめた新刊『田中角栄のふろしき』(日本経済新聞出版社)で紹介されたエピソードから、リーダーに必要な条件を7日間連続で学ぶ連載。2回目は優秀な部下をいかに使いこなすか。 =敬称略

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角栄が第2次池田改造内閣の蔵相に決まったのは1962年7月18日。この時、角栄は44歳の若さだった。最強官庁の大蔵省(現財務省)にとって史上最年少の大臣だった。大蔵省はもちろん世間も驚いたが、何よりも驚いたのは角栄自身だった。永田町の独特の「貸し」と「借り」、派閥と派閥、そしてその派閥内部の力学が働き、「ポトン」という感じで角栄の目の前にそのポストが落ちてきた。

しかし、穏やかでないのが、大蔵省の官僚たちだった。国を背負って毎日徹夜で仕事を続ける誇り高き大蔵官僚にとって、永田町の論理など知ったことではない。さらにその結果、出てきたのが田中角栄というまだ若い政治家。霞が関の頂点である大蔵省の大臣になるには「蔵相の器ではない。軽量級」と見る向きも少なくなかった。

昨日までの敵が、今日から味方に

そして何より角栄と大蔵省は相性が悪かった。蔵相に就任する前、角栄のポストは自由民主党の政務調査会長。大蔵省とは浅からぬ間柄ではあったが、「攻める」側と「守る」側。角栄は政調会長として国に予算の上積みや米価の引き上げを迫り歳出の積み上げを迫る側だったの対し、大蔵省はできるだけ支出は抑えようと身構え守る側だったから、これまでは対極の立場。平たく言えば敵同士だったわけだ。弁が立つ角栄にドンドン、攻め込まれ、大蔵省が苦い思いをさせられたことも一度や二度ではなかった。

その角栄が今度は大蔵省側にまわってくるのだ。「昨日までは敵だったが、今日から味方だ」と言われても、大蔵省だってすぐに「はい。そうですか。よろしくお願いします」とは言いにくい。「あの調子で財政金融政策をやられてはたまらない」。大蔵省内で角栄を警戒する声は多かった。

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