デビュー間もない石原裕次郎さんと出会い、52歳で亡くなるまでの31年間、私服から衣装まですべてを手掛けた伝説のテーラーがいる。遠藤千寿さん(84)その人だ。「体自体がスターそのもの」と遠藤さんをほれぼれさせたスタイルを持つ裕次郎さんは、自分を際立たせる服を研究し、次々とアイデアを出した。「裕次郎さんはものを作ることが大好きでした」。二人三脚で仕立てた服は2000を超え、最後のスーツは棺に収められた。生涯を通じて装いにこだわり続けた昭和の大スター、石原裕次郎さんの横顔を語ってもらった。
■初めての注文は紺とグレーの背広を月賦払い
――裕次郎さんとは同い年の21歳で出会ったそうですね。初対面でどのような印象を持ちましたか。
「僕は洋服屋で修業の身でした。顧客だった俳優の長門裕之さんのご自宅にスーツの注文を取りにいくと、デビューしたての裕次郎さんがひょっこり1人であいさつに現れた。それが最初です。『俺も作ろうかな』と裕次郎さんはその場で背広2着を注文しました」
「顔が小さくてとにかくオーラがすごかった。寸法を測ったら身長182センチ、股下85センチ。体自体がスターでしたね。裕次郎さんのスタイルで特徴的なのはお年を召しても脚が太らなかったこと。バスケットボールやスキーでケガをしたことも理由でしたが、上半身ががっちりしていても脚が細い。だから流行していたパンタロンなんかはくと、すそが広がって、きれい。脚が長くて他の人とは明らかに違った。俳優になったら売れるだろうなあと思いましたよ」
――初めて注文したスーツはどのようなものでしたか。
「紺とグレーの背広です。当時の注文服は1万7000円ほどと結構な値段で、大卒の給料1カ月分ぐらいしました。裕次郎さんはまだ慶応の大学生でしたから、月賦払いでいいかと聞かれて、承りました」
――それから洋服をいろいろ作るようになったのですね。
「2本目の出演作『狂った果実』で主役を演じてスターにのぼりつめました。出演料が200万円になったと本人から聞きましたよ。月賦は最初だけで服はすぐ現金払いに(笑)。しょっちゅう注文がきて友達のように付き合うようになりました。私が独立を相談すると『やれよ、応援するぞ』といってくれて22歳で注文服『ニューエスクワイヤー 遠藤千寿』を開きました」

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