有森裕子 「幸せにならなきゃ」プロ目指し走り続けた
今回は、アスリートが自ら勝ち得た成果を糧に、自由に活動していくことについて…具体的には、アマチュア選手の「プロ化」についてお話ししたいと思います。
「強くなった選手は、みんな幸せにならなきゃ」
前回記事「有森裕子 頑固な私と共に歩んでくれた恩師・小出監督」で、亡くなられた小出義雄監督との思い出を語りましたが、監督が生前、私や高橋尚子さんといった教え子たちによく話してくれたことの中に、こんな言葉がありました。
「強くなった選手は、みんな幸せにならなきゃ」
それはつまり、「(オリンピックでメダルが取れるくらい)強くなった選手は、それで食べていけるようにならなきゃ。だからお前もがんばれよ」という意味合いだったように思います。
小出監督が当時、「プロ化」を念頭に置いてお話しされていたかどうかは定かではありません。監督から「プロになれ」と言われたこともありません。でも、アスリートが血のにじむような努力を重ねて強くなったら、その成果に見合う十分な対価を得て生活できるようになる未来を、一緒に夢見てくださったように思います。
今でこそ、体操の内村航平選手や、マラソンの川内優輝選手など、アマチュア選手が「プロ宣言」をすることは珍しくなくなりました。しかし、私が現役の頃は、そうした選手は誰ひとりとしていませんでした。ロールモデルがいない中で私は、五輪メダリストとして初めてプロ宣言したアスリートになったのです。今から23年ほど前の1996年12月のことでした。
もう一度メダルを取って、自分の進む道は自分で選びたい
1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した後、私は大きな苦しみの中にいました。さらに上を目指して前進したいという自分の気持ちと、周囲の方向性にズレが生じ、思い通りにいかないことが続きました。いら立ち、悩み、苦しい思いを嫌というほど味わいました。
そんな泥沼のような状態から抜け出すため、私は次のアトランタ五輪(1996年)ではなんとしてももう一度メダルを取りたいと思いました。何かを発言する際、メダルを持っているのと持っていないのとでは、周囲の反応に天と地ほどの差があります。2大会連続でメダルを獲得すれば、自分のやりたいことができる。自分の意思で道が切り開ける――そう信じ、突き進んだのです。メダルさえ取れれば、色は何色でもいいと思っていました。
そうして迎えたアトランタ五輪で、銅メダルを獲得。その直後から、私はプロ転向について真剣に考え始めました。きっかけとなったのは、アスリートの肖像権の問題です。アトランタからの帰国後すぐに、私の元にはポスターやCMなどへの出演依頼が次々と舞い込みました。ところが当時、日本オリンピック委員会(JOC)と日本陸上競技連盟は、それを認めてくれませんでした。そこで初めて、JOCの加盟競技団体の登録選手の肖像権は、JOCが一括管理していることを知ったのです。
「私の肖像権を返してください
」
JOCがこうした方針をとるのは、「がんばれ! ニッポン! キャンペーン」(当時)の協賛企業の広告に登録選手を起用してもらうことで、企業から協賛金をもらい、その一部を強化費として競技団体に分配するためでした。しかし、選手に入ってくるお金はそのさらにほんの一部で、協賛企業以外の企業の広告への出演は認められていませんでした。
私は納得できませんでした。バルセロナ五輪の銀メダルと、アトランタ五輪の銅メダル。2つのメダルを手にして、これから走ることを生業にしたいと思っていたのに、肖像権を管理されてしまったら身動きができず、活動も制限されてしまいます。同じ社会の中で生きている他の職業の人は、自分の価値を評価してもらい、正当な対価を得ているのに、ジャンルがスポーツというだけで、なぜアスリートは自由を制限され、生きるための選択肢をもらえないのかと、強い憤りを覚えました。
「自分の肖像権は自分で管理するので、返してください」。私はそうJOCに訴えました。しかし、私の訴えはまったく聞き入れてもらえません。「これはさまざまな競技団体に所属するアスリートの強化費を稼ぐための大事なキャンペーンです」「納得できないのであれば、引退してタレントになればいいのでは?」と言われ、なぜ自分が唯一食べていける「走る」という手段を手放さなければいけないのかと、悲しい気持ちになりました。
平行線が続く話し合いにしびれを切らした私は、「とにかく私は『がんばれ! ニッポン! キャンペーン』からは外れます。強化選手にならなくていいので、個人でお金を稼いで走ります」と事実上のプロ宣言をし、1996年12月に所属先のリクルートを退社して同社と業務委託契約を結びました。そして、JOCを通さずにCMなどに出演したのです。
新しい挑戦をバックアップしてくれた古巣の存在
プロランナーとして自由な商業活動に踏み切ろうとする時に味方になってくれたのが、古巣のリクルートでした。同社には、個人の価値を認めて評価し、新しいことを始めようとする人を応援してくれる社風があります。当時、私の社外広報担当だった古西宏治さんは、手を尽くしてあらゆる部門に一生懸命掛け合ってくれました。
JOCからは、"特例"としてならプロとして認めると言われました。でもそれでは、社会で生きる一人の人間としての当たり前の権利を認めてもらったことにはなりません。今後、他の選手が自分の意思でプロの道を選べるように、あくまで"前例"としてプロになりたいのだと主張し続けました。
その間、私は陸連登録を外れていたので陸連のレースには出場できず、どうせ走れないならばと米国に語学留学していました。こう着状態が2年半続き、ようやくJOCに正式にプロとして認めてもらうことができたのは、1999年5月のことでした。
JOCから正式にプロとして認めてもらえるまでの間、不安がなかったといえばウソになります。ですが、米国滞在中、海外の選手に自分が肖像権について戦っていることを話したら、「裕子はなぜ、そんな当たり前のことで戦っているの? そんな自由もない状態で、日本の選手は平気なの?」と驚かれました。私が求めていることは、決してわがままでも非常識でもない。状況は必ず変わると信じていたのです。
あの時の私の主張や行動に対して、「天狗になった」「調子に乗っている」「五輪選手に選んでもらった陸連への恩を忘れたのか」などと思われた方もいらっしゃったと思います。特に、当時の日本のスポーツ界では、謙虚でいることを美徳とし、自分の権利、特にお金が絡む主張をすると叩かれるような風潮がありました。でも、私はただ、自分の生き方を自分で選んで、前に進みたかっただけで、それをかなえるための選択肢を得る権利はあると思ったのです。
自分の人生に責任を持つことの充実感
米国滞在中、私は、プロランナーとしての最初の仕事であるボストンマラソンを目指して、トレーナーや練習パートナー、エージェントに自分で報酬を支払いながらトレーニングに励みました。これだけ世間を騒がせてプロになったのですから、結果を出さなければいけないというプレッシャーはたっぷりありました。でもそれ以上に、やりがいがあったんです。それはきっと、自分で選んだ道だったからだと思います。走ることを生業とし、自分の人生に責任を持つことの充実感を味わえたような気がしました。
そうして臨んだ1999年4月のボストンマラソン。アトランタ五輪以来、2年9カ月のブランクを経てのレースでしたが、2時間26分39秒の3位でゴールすることができました。自己ベストを8年ぶりに更新することができ、ホッとしたことを覚えています。
2002年には、アスリートのマネジメント会社「株式会社ライツ」(現在の株式会社RIGHTS.)を設立しました。この社名には、アスリートとしての権利、人としての権利を大事にしたいという思いが込められています。
私がプロになった後、マラソンの高橋尚子さんや水泳の北島康介さんなどのメダリストがプロ宣言し、現在へとつなげていただいたことを感謝しています。アスリートも、自分の価値を最大限に生かして生きていくための選択ができるようになったことが、何よりもうれしいです。
プロとして生きていくためには厳しいことが多く、成功するには結果を出すことが常に求められます。でも例えば、マラソンの川内選手は、すべての大会を本当に一生懸命に走ります。そんな他のランナーとは少し違う、唯一無二の魅力があれば、たとえ「レースに勝ち続ける」ことができなくても、生き残れるとも思います。もし走れなくなっても、後進や市民ランナーを指導したり、ランニングクラブを作るビジネスを始めたりするのも、走ることを生業にしたプロの仕事です。
2020年の東京五輪にはプロとして挑む選手もいるでしょう。五輪が終わった後に、今後の自分の道を選ぶ選手も多いかと思います。プロの道を選ぶ選手は覚悟を持って、厳しさも楽しむぐらいの気持ちで進んでほしいと思います。もちろん、プロになる、ならないは個人の選択であって、どちらが正しいというものではありません。プロであってもなくても、自分らしい生き方を模索しながら、自分の道は自分で選んで責任を持って歩んでいくアスリートがこの先も増えていくことを期待しています。
(まとめ:高島三幸=ライター)
元マラソンランナー。1966年岡山県生まれ。バルセロナ五輪(1992年)の女子マラソンで銀メダルを、アトランタ五輪(96年)でも銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得という重圧や故障に打ち勝ち、レース後に残した「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞となった。市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。
[日経Gooday2019年6月11日付記事を再構成]
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