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それでも親子

タレント・橋本マナミさん 長い下積み、両親が見守り

2019/4/12 日本経済新聞 夕刊

1984年山形県生まれ。13歳から芸能界入り。5月31日から「熱海五郎一座 東京喜劇 翔べないスペースマンと危険なシナリオ~ギャグマゲドンmission~」にゲスト出演。

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はタレントの橋本マナミさんだ。

――ご両親が忙しく、子ども時代は一人で過ごすことが多かったとか。

「弟が生まれてすぐに病気が見つかり、両親は東京の病院通いに奔走していました。私は親戚の家に預けられたり、留守番をしたりすることが多かったんです。子ども心に迷惑をかけちゃいけないという気持ちがあり、一人手芸をするのが好きな内気な子供でした。両親の心配も伝わり、内気な性格にコンプレックスを感じていました」

――芸能界に入るきっかけは何だったのですか。

「小学校の先生が『背が高いのだから』と聖火ランナーやオーケストラの指揮者などいろいろな役に推薦してくれました。最初は人前に出るなんて絶対に嫌と思っていたのが、徐々に皆の注目を浴びることが快感になりました。当時夢中になっていたドラマの影響もあり、芸能界に入りたいと思うようになりました」

――ご両親には気持ちを伝えたのですか。

「初めての自己主張ということで両親は喜び、全日本国民的美少女コンテストに応募してくれました。でも、まさか入賞するとは思ってなかったようで、いざ演技部門賞をいただき、芸能界入りが決まると大パニックでした」

――ご両親は不安も大きかったでしょうね。

「父は物静かで多くを語らない人。人生悔いのないように挑戦しなさい、と背中を押してくれたのは母でした。専業主婦が多かった時代に、母は自らハウスクリーニングの会社を創業していました。幼くして両親を亡くし、自力で人生を切り開いてきた人。どんな苦労も一晩寝れば立ち直れる前向きなところは母譲りなのかもしれません」

――華々しいデビューから一転、なかなか芽が出ず苦労されたと聞きます。

「中身は恥ずかしがり屋の子どものまま。大人と話すのも、写真を撮られるのも苦手でした。克服しようと、アナウンススクールやエッセー教室にも通いました。それでようやく、もらえたのは水死体の役。目をつぶっているつもりでも『眼球が動いている』とNGを連発し、真冬の海に何時間も浮かび続けました。帰省した帰りの新幹線ではいつも大号泣です。そんな私を両親は、何も言わず見守ってくれていました」

――突然の「愛人キャラ」にご両親は驚いたのでは。

「27歳できわどいグラビア写真を出し始めると、母から『あんた、どこへ向かっているの』と厳しく問い詰められました。私にはこれしかないと押し切り、音信不通になった時期もあります。でも仕事の幅は広がりました。NHK連続テレビ小説『まんぷく』に出演したことは、両親もとても喜んでくれました。グラビア写真集も、今では『一番に予約する』と応援してくれています」

[日本経済新聞夕刊2019年4月9日付]

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