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フランスで気づいた日本料理の真髄 菊の井村田吉弘氏菊の井代表取締役 村田吉弘氏(上)

「『菊乃井』に伝わる味ではなく、自分がうまいと思う味を提供し始めてからお客さんが来るようになった」(村田さん)

――しかし、3年後には予約が取れないと言われる店になりました

京料理「たん熊」の先代がうちの親父と友達で、毎週来てくれてたんです。ある日、「木の芽あえ」を出して「それ甘くないですか」と聞いたら、「甘いと思うたら甘くないものを作らんかい」と言わはった。それは親父のレシピなんで、「菊乃井の味を守るには親父と同じように作らなあかん、と思うてるんです」と答えたら、「お前はアホやな」と。

「お前がうまいと思わんものを客に出しても、精いっぱいやったという気にならんやろ。自分がほんまにうまいと思い、これ以上できひん料理を出して、それでもお客さんが来いひんのやったら店がつぶれてもしょうがない。思うようにやったらええ」と言われました。

それで、僕の思うようにやりだしてからお客さんが来るようになったんです。日本料理で低温調理をやったんは僕が最初です。フランス語の原文の本を友人に訳してもうて、ラッピング調理法、真空調理、低温調理をやったらこれがおもろい。食材と調味料を入れた袋を真空密閉して低温で加熱するんです。カモロースを低温調理すると、身がロゼに仕上がって、軟らかくてとてもおいしくなる。

お客さんに出すと、当時の日本人はピンク色のカモ肉なんか食べたことがないんで、「大丈夫か?」と恐る恐る食べて、「おいしいなあ」と喜んだ。親父は「けったいな料理ばかり作って」と言うとったけどね。

リンゴをあえ物に混ぜたり、フロマージュブランを白あえに使ったり、タイのアラを赤ワインで炊いたり、好き放題やってました。レストラン「タテル ヨシノ」のオーナーシェフになった吉野建が、フランスに修業に行く前に研修に来ましたよ。

――フランスでの経験がここで花開き、先進的な料理が生まれたんですね。その後、東京に出店された。

東京で失敗できひんから、まず物販からと考えて、デパートに総菜とお弁当の店を出したんです。ほかのデパートにも総菜店を出し、1日限定100個の稲荷ずしがあっと言う間に売り切れて「幻の稲荷寿司」とか言われ、知名度が上がったところで2004年に「赤坂 菊乃井」をオープンしました。

京都の料亭は、一般の人がハレの日に家族で行く店です。そういう料亭を東京にも作りたかったから、普通に働いている人が、「今日は誕生日やから家族でおいしいもん食べよ」と来てもらえる値段設定です。

東京出店前から食に関するプロデュースの仕事を受けるようになってて、アークヒルズの回転ずし店や、シンガポールエアラインの機内食をプロデュースしました。機内で出す会席料理が話題になって、ほかの航空会社でも和食が出るようになったんです。こうして徐々に、仕事の内容やら方向性が広がっていきました。

――次回は、日本料理アカデミーの設立、「和食」のユネスコ無形文化遺産登録など、日本料理を世界に発信するための活動に関してお聞きします。

村田吉弘
1951年、京都・祇園の料亭「菊乃井」二代目の長男として生まれる。立命館大学在学中、フランス料理修業のために渡仏。大学卒業後、名古屋の料亭で修業し、76年に実家に戻り、「菊乃井木屋町店」開店。斬新な料理で予約の取れない店と呼ばれる。93年菊の井代表取締役に就任。04年日本料理アカデミーを設立し理事長を務め、07年にNPO法人化。13年の和食のユネスコ無形文化遺産登録に尽力。18年黄綬褒章受章し、文化功労者に選出される。

(フリーライター 芦部洋子)


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