ヨーヨー・マ 新盤バッハ「無伴奏チェロ組曲」を語る
世界最高の評価を受ける米国人チェロ奏者ヨーヨー・マ氏(63)が、生涯3度目となるJ・S・バッハ「無伴奏チェロ組曲(全6作品)」のCDを出した。チェロの「聖典」といわれる曲集に込めた思いは何か。「困難な時代」に生きる人々を助ける音楽の力について巨匠が語り尽くす。
予想外の事態がインタビューを始めてすぐに起きた。ヨーヨー・マ氏が目の前でいきなり愛用のチェロ、1712年製ストラディヴァリウス「ダヴィドフ」を弾き始めたのだ。バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」から1曲目の有名な「プレリュード」。「4歳のときに初めて父に教えてもらったのがこの作品だった。何事にも興味津々な年ごろで、新しい音楽との出合いは深く印象に残った」。そう言いながら、指揮者で作曲家だった父・馬孝駿氏から受けた手ほどきを実演してくれた。
■生涯3度目の「無伴奏チェロ組曲」全曲録音
ヨーヨー・マ氏にとってバッハの「無伴奏チェロ組曲」は幼少期から人生の心強い味方となってきた特別の作品だ。たった一本のチェロで奏でられるこの曲集の深い精神性は比類ない。彼の最初のレコーディングは20代後半の1982年。2度目が40歳を目前にした94年から40代前半の97年まで。そして62歳の2017年12月、3度目のレコーディングを果たし、8月に出たCDが「バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)シックス・エヴォリューションズ」(発売元:ソニー・ミュージックレーベルズ)だ。
――バッハの「無伴奏チェロ組曲」とどう出合ったか。
「4歳のときからこの組曲とともに生きてきた。最初に父から『第1番』の『プレリュード』を習った。1日目に父から教わったのは最初の8つの音符だ。これを2回繰り返して1小節になる。左手で使うのは指1本、どんな子供にもできる。2日目は2本の指を使い、初日と似たようなパターンの繰り返しだ。3日目は3本の指と増えていき、毎日1小節ずつ弾けるようになった。『プレリュード』には42小節あるので、42日目には1曲弾けるようになっていた」
「人は繰り返し読む気に入った本や、小さい頃からの思い出の詰まった家など、生涯を共にするものに深い愛着を覚えるものだが、私の場合は音楽作品だった。バッハの『無伴奏チェロ組曲』との対話は私個人の成長と相応している。この作品はどんなときも私を癒やし、苦しいときには慰め、安心させてくれた。時を経ても作品は変わることはないが、年を取るにつれ私自身は変わり、作品との関係も変わった。そこでもう一度レコーディングしてみたい気がした。なぜなら60歳を過ぎると人生観が変わり、世の中が違ったふうにみえる。私の人生観だけでなく、私がこの音楽から何を感じ、学んだかを表現する機会となったように思う」
ヨーヨー・マ氏の最重要レパートリーであるバッハの「無伴奏チェロ組曲」は、20世紀最高のチェリストといわれるスペイン出身のパブロ・カザルス氏(1876~1973年)が世に広めた作品だ。カザルス氏は13歳だった1890年、バルセロナの古書店で偶然この曲集の楽譜を「発見」した。1904年にパリで全曲演奏会を開き、200年近くも埋もれていた傑作が復活した。
さらにスペイン内戦で亡命したカザルス氏は1936~39年に同曲集をレコーディングした。彼の反フランコ独裁政権の姿勢と相まって、ヒューマニズムと歴史的価値を持つ名盤として聴き継がれている。ただしこの曲集にはバッハの自筆譜がなく、妻アンナ・マグダレーナによる写譜しか残っていない。このため最近では妻が作曲したのではないかという異説さえ出ている。だがヨーヨー・マ氏のこの曲集への愛着と信念は揺るがない。緩急自在な演奏を繰り広げる最新CDからは、何か吹っ切れたような、達観したチェリストの幸福感が伝わってくる。
■60代でのバッハ演奏で世界に貢献できること
――20、40、60代の3回のレコーディングはそれぞれどんな背景と特徴と持っているか。
「20代の頃は自分が不死身で人生はずっと続くと思うものだ。それでも当時、バッハの『無伴奏チェロ組曲』の収録は挑戦だった。若者に何ができるのか、もっと経験を積んだ年配の演奏家が弾くべき作品ではないかといわれていた。偉大なカザルスが発見し、我々に広めた音楽で、カザルスに匹敵する奏者はいない。そんな状況を切り抜けるため、私はカザルスではないし、彼と同じことをしないと決めた。3日間のレコーディングで私は20代の自分にできる、最高の演奏を目指した」
「2度目は40代前半。私は家族と子供を持った。多くの偉大なアーティストたちと一緒に仕事をしたが、特に(オランダの古楽演奏家の)トン・コープマン氏から教わった。彼が率いるアムステルダム・バロック管弦楽団・同合唱団はバッハのカンタータの全曲録音を進めていた。20代の頃には何も知らなかったことを彼らから学んだ。そこで2度目のバッハ『無伴奏』ではバロック仕様の弓を使う実験もした。いくつかの組曲では(バロック調律を使ったので)ラの音程が通常よりも低い」
「90年代当時はDNAについての議論が盛んになり、(ヒトゲノム計画など)分子生物学が発展してきた時期でもあった。そこで私は音楽もDNAを持つと想定し、そのDNAを創造的な人たちの心に植え付けたら、彼らが何か人々の役に立つ有意義なものを生み出すのではないかと考えた。そこで歌舞伎の坂東玉三郎氏をはじめ様々な分野のアーティストたちとの共同作業によって、6つの組曲に対応した6部から成る映像シリーズも製作した」
「そして今回、3度目の録音で私は新たな実験に臨んだ。多くの人々からバッハの『無伴奏チェロ組曲』が心の支えになっているという声を聞いてきた。では62歳になった私が社会にどんな貢献ができるのか。そこで私はなぜバッハが『無伴奏チェロ組曲』を書いたのか、それが現代にいかに役立つかを考えた」
「世界を見渡すと様々な問題が起きていて、一人で解決できるものはない。地球温暖化のようにみんなで取り組まなければ解決できない問題も多い。音楽は人をひき付け、つなげる力を持っている。人々が集まり、こうした課題に向き合うきっかけを作ることができる。音楽が問題を解決できるわけではないが、人々をつなぐ役割は果たせるのではないか。クレージーな考え方かもしれないが、私は本気で取り組んでいる」
ヨーヨー・マ氏は7歳にしてジョン・F・ケネディ大統領の前で演奏し神童と称賛された。2009年にはバラク・オバマ大統領就任式典で全世界に向けて演奏した。米国社会のアジア系マイノリティーを代表するアーティストの一人であり、演奏家の次元を超えるほど政治・社会的にも大きな影響力を持つ存在だ。音楽が人々に及ぼす力についても語り始めた。
■誰もが音楽のとりこになる魔法のような瞬間
――あなたにとって音楽とはそもそも何か。
「音楽作品は単なる音符の集まりではない。音符の並びを知れば、自分の音楽になるわけではない。音をどう使うかが重要なのだ。文化は記憶と創造の産物だ。音楽の魅力、言語や歴史などすべての文化を私たちは創造してきた。傑作が生み出されれば、人々はそれを記憶し、長く保存しておきたいと思う。しかし世界は常に変わっていく。私たちが過去を振り返り、未来を見る場合、同じ対象でもアングルの違いで見え方は変わる。ある方向から見ればそれは真実であり、また別の角度からは違った事実に映る。音楽や文化とはそういうものだ」
ヨーヨー・マ氏のこうした音楽や文化の捉え方を知れば、「無伴奏チェロ組曲」という同じ作品をほぼ20年ごとに3回も録音した意義もはっきりしてくる。同時に彼はジャズやタンゴのミュージシャンとの共演、あるいは古代通商路沿いの民俗音楽や伝統文化の現代的価値を突き止める「シルクロード・プロジェクト」などを通じて、クラシックを超えた広大な音楽世界を人々に伝えてきた。それがジャンルの垣根のない幅広い人気を獲得する要因ともなっている。そもそも彼を支えてきたバッハの音楽自体が、ジャズやポップスのミュージシャンも引き込むほどの幅広い人気の可能性を内包しているといえる。
――バッハの音楽が多くの人々をひき付ける理由は何か。
「私はバッハが音楽家としてプロテスタント教会のために働かなくてもよかった唯一の時期の2~3年間に注目している。バッハが毎週日曜日の礼拝のためのカンタータを作曲する必要がなかった時期であり、音楽を愛する人たちのために彼は好きな曲を書いた。この期間に『ブランデンブルク協奏曲』や『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』など、宗教上の目的のない傑作が生まれた。『無伴奏チェロ組曲』もその一つで、彼はそこにドイツやフランス、イタリアなど様々な地域のあらゆるダンス音楽を盛り込んだ。さらにチェロ独奏の中に多くの音色を生み出そうとした。その作品は聴き手の想像力をかきたて、超現実の世界へと引き込んでいく力を秘めている」
「バッハの音楽に特別の力があるのならば、大勢の人々の前で演奏したらどうなるか、いくつかの会場で試した。米国の野外音楽堂ハリウッド・ボウルで1万7000人に向けて弾いてみたら、確かに効き目があった。クラシックコンサートとしては異例の数の観客が、みんな集中して聴き入っていた。米バークレーの野外音楽堂でも演奏した。静かなメロディーで『組曲第5番』を弾き終わったとき、誰も動かず、静まりかえっていた。7000人もの観客がみんな眠ってしまったのかとさえ思った。まるで魔法にかかったような瞬間で、誰もが音楽のとりこになっていたのだ。音楽によって生まれるこうした一体感は、社会の意志ともいえる人々の結束と行動を生み出すきっかけになるのではないか」
歴代の名チェリストには、世界中の人類の苦しみに思いをはせて行動した偉大な人格者が多い。人を癒やし、慰め、諭し、励ますようなチェロの厚く温かい音色が、優れた人物を育てるのか。「私たちには何かができる」とインタビューの中でヨーヨー・マ氏は語った。演奏だけでなく、言葉や身ぶりにも、常に人を励まそうとする姿勢が感じられた。現代には珍しいヒューマニストだ。それは20世紀という世界大戦の時代を生きたカザルス氏らチェロの先輩たちが貫き通した姿勢だ。60代となった巨匠ヨーヨー・マ氏。これからも彼には何かができる。そんな期待を抱かせる存在感が音楽にも人物にもみなぎっていた。
(映像報道部 シニア・エディター 池上輝彦、槍田真希子)
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