生肉と格闘、ハンバーグ責め地獄 うまさ追求への執念
男のハンバーグ道(1)
おいしいハンバーグとは何なのか。肉の選び方、こね方、火の通し方……。多様な要素があるだけに、調理法がなかなか定まらない。そんな高難度のテーマに果敢に挑戦。究極の味を求める著者の、果てしない実験の苦行が始まった。日本経済新聞出版社の新書、日経プレミアシリーズ『男のハンバーグ道』から4回にわたって絶品ハンバーグの作り方をお伝えする。
今度はハンバーグだ。
前作の『男のパスタ道』では、ペペロンチーノのレシピを極めるため、パスタをゆでまくった。ほどよい食感と味を求めて、水の量を変え、塩の量を変え、火加減を変え、鍋を変え、ゆで方を変え、ひたすらその弾力を確かめてきた。
当時は「苦行のようだ」と嘆きつつ、試作を重ねていた。しかし、いま思えばなんと楽だったことだろう……。ペペロンチーノとハンバーグでは、実験におけるパラメーター(変数)の数が違いすぎる。ハンバーグはさらに大変だったのである。
どんな流通経路をたどった肉の、どんな部位を使うべきか。合いびきにするとしたら、どんな肉をどんな配合で混ぜるべきか。こねるとき、手をどのように動かすべきか。道具でこねるとしたら、何をどんなふうに使うべきか。どの程度の時間をこね、肉の温度は何度を保つべきか。そして、それらのパラメーターの変化がどういう現象につながり、どんな味の変化をもたらすのか……。一つひとつが論文になりそうだ。
わが家のキッチンで生肉とたわむれつつ、「実験」をくり返しても、正確な結論はいつまでも出ないように思われた。
私の服には牛脂の匂いがしみ込み、今回も試食にかり出された子供たちはとうとうハンバーグに見向きもしなくなった。「子供が大好きな料理」で常に上位にランクインする人気者だというのに。さっきふと見たら、兄妹で仲良く小松菜のおひたしを食べている。ハンバーグ道の追究は、一つの家庭の食卓の風景までも変えてしまったのである。
ゆでたパスタの試食では、たとえば塩によって「硬さがどう変わるか」だけに集中して判断することができた。しかしハンバーグの場合、塩を入れると弾力だけでなく、粘りやうま味やジューシーさなど、さまざまな変化が一気にもたらされる。一つの視点で評価できるシンプルな料理ではないのだ。最終的にはおいしいか、おいしくないか、というあいまいな指標で、総合的に判断するほかなかった。
そのため、スタート時点がかなり手前になった。「おいしいとは何を意味しているのか」から考え始める必要があったわけである。
そもそも、ハンバーグとはどんな料理なのか。歴史を調べた。日本に入ってきた明治~昭和初期のレシピを頼りに、二つのルーツを見つけ出した。研究するうちに、ハンバーグは「ガチの肉料理」ではなく、もっと総合的な料理であることがわかった。こねることで生じる化学的な変化を見れば、その構造はパンに似ている。その味を分析すると、コンソメスープに近い。シンプルなようで多様性をはらんだ料理なのだ。
ハンバーグの歴史を根源までたどれば、原始時代、捕まえた獣の硬くて食べられない部分を、石などですり潰して食べたことに始まるだろう。小規模な集団であっても、序列はあったはずだ。最高の部位、つまり内臓やそのまま食べられる軟らかい肉は、力のある者が食べた。咀嚼(そしゃく)できないほど硬い肉や腱(けん)は、序列の低い者がすり潰すなどして食べたのではないか。だとすれば、ハンバーグはその誕生時から「権力を持たぬ人たち=庶民の料理」だったといえるかもしれない。
のちにヨーロッパでハンバーグという「料理」が成立するときも、それは庶民の料理として始まった。この庶民の料理という性格が、私が実験をくり返し、「どっちがおいしいといえるのか」を考えるときの道しるべになってくれたように思う。
油断していると、ハンバーグという料理はどんどん拡散してしまう。常に「何をもってハンバーグといえるのか」と自問し続ける必要がある。
たとえば、『男のパスタ道』で取り上げたペペロンチーノは、最初から食材の種類が限定されている。基本的にはパスタ、塩、オイル、ニンニク、唐辛子だけだ。その制約の中で技をきわめる料理だからこそ、私は「求道者のパスタ」と呼んだ。
一方、ハンバーグはもっと懐が深く鷹揚(おうよう)だ。
ペペロンチーノにとろけるチーズを入れて、トマトソースをかけ、目玉焼きをのせたら、100人が100人、ペペロンチーノとは認めないだろう。では、まったく同じことをハンバーグにしてみよう。肉だねにとろけるチーズを入れて焼き、トマトソースをかけ、目玉焼きをのせたら、どうだろう。「ハンバーグとは認めない」と却下するどころか、「ハンバーグそのものだ」と多くの人は思うのではないか。ペペロンチーノに比してハンバーグの懐の深さがよくわかる。
ただ、面白いことに、そんなハンバーグも形状に関しては偏狭だ。ハンバーグと同じ肉だねをボール状に成形して焼き、ドミグラスソースをからめたら、ミートボールと呼ばれ、決してハンバーグと認められることはない。逆にいえば、ハンバーグと認められる形状さえクリアしていれば、肉だねの中身やソースは問われないのだ。
だから、いろんな副材料を混ぜることができる。現代日本のハンバーグの基本的な材料は、焼き肉、パン(パン粉)、牛乳、卵だが、工夫したレシピやおいしくする裏ワザなどを見ると、粘りを出しジューシーにするために寒天やゼラチンを入れたり、コクを出すためにチーズを入れたり、うま味を増すたっめにスープの素を入れたりと、さまざまな材料を足していくものが多い。
「足し算」路線の可能性を探るために、私もいろんな副材料で試してはみたのだが、途中でぬぐいがたい違和感をおぼえるようになった。粘りを出して成形しやするするには〇〇、ジューシーにするには〇〇、よりうま味を増すには〇〇、と足し算していくと、ハンバーグの本質を見誤る気がした。
本稿では最も基本的な食材だけで作ることに決めた。もちろん、何が基本なのか、という問題は考える必要があるが、それに際しては「庶民の料理」という性格がヒントを与えてくれることだろう。
基本の食材しか使わずに、いかにおいしいハンバーグを作るか、一つひとつのパーツを取捨選択し、選んだパーツをみがき抜き、作業を洗練させて、最終的に最高のハンバーグを構築するーー。それが本稿のミッションである。だからソースや調味料で味をごまかすこともしない。塩だけで調味し、焼いただけでおいしいハンバーグを目指すのだ。
おいしかどうかを客観的に判断するのは、実は難しかった。客観的であろうと心がけたが、パラメーターが多すぎるゆえ、最終的には主観で判断するしかない。自分の味覚にしか頼れないので、せめて感性ぐらいはとぎ澄まそうと考えた。
そこで、会食などやむをえない場合を除いて、日常の食事から肉と魚を排除した。肉に対する味覚が敏感になり、ハンバーグのおいしさの優劣をきびしく判断できるようになるかもしれないと考えたのだ。
そのように体を整えたうえで、特に重要な試食は、朝5時に起床し、何も食べない状態で行った。著名なチョコレートのテイスターがそうやって味を判断していると聞き、まねをしたみてたのである。
起床後、白湯を飲んでからハンバーグを焼いて試食する。口がクドいので朝食はみそ汁とご飯だけで済まし、子供たちを学校に送りだしてから、またひたすら試食する。さすがに全部は食べられないので、一口だけ試食したハンバーグはトマトソースで煮込み、家族のためのパスタソースにしたりした。
昼になっても食欲はわかない。しかし、これが仕事である。合間にコーヒーやお茶で口をすすぎながら、試食を再開。夜までハンバーグ以外のものは口にしない。夕食は酢の物などごくさっぱりしたものだけですます。そして、明朝の試食に向けて眠りにつく。そんな生活を3カ月も続けた。
そんな「ハンバーグ地獄」で、ハンバーグの味に対する感度はにぶったに違いない。完成をとぎ澄ますどころか、飽きてしまい、他の人がおいしいというハンバーグもちっともおいしく感じなくなった。
このことが最終的に功を奏した。私はそのとき、日本一ハンバーグにきびしい料理研究家だったに違いない。そこそこのおいしさじゃ、一口で十分という感じ。もうハンバーグなんか見たくもない。だからこそ、最終的に、そんな状態でも思わずガツガツと食べてしまうレシピを見いだすことができたのである。
書籍の執筆中は他の仕事を断るため、金欠状態に陥るのだが、実は今回は前回の『男のパスタ道』よりも食材費はかかっていない。確かに最初はお金がかかった。おいしい肉、つまり高級な肉で作ったほうが、ハンバーグはうまくなるに決まっている。そう思い込んでいたからである。
しかし、実際に研究をスタートすると、かなり早い段階で食材費はぐんと下がった。ハンバーグは原始の時代から現代にいたるまで、リーズナブル(この単語は「安い」と「理屈が通っている」の両方の意味にとってほしい)な料理なのだ。
ライター 1969年東京都生まれ。慶応大学経済学部卒業。出版社で週刊誌編集ののち寿退社。京都での主夫生活を経て、中米各国に滞在、ホンジュラスで災害支援NGOを立ち上げる。その後佐渡島で半農生活を送りつつ、情報サイト・オールアバウトの「男の料理」ガイドを務め、雑誌等で書評の執筆を開始。現在は山梨に暮らしながら執筆活動を行うほか、小中学生の教育にも携わる。著書に『なんたって豚の角煮』『男のパスタ道』『男のハンバーグ道』『家飲みを極める』などがある
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
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