リンボウ先生 日本とイギリスの旅情を歌う
作家で国文学者のリンボウ先生こと林望氏(68)が声楽に取り組んでいる。11月のリサイタルでは日本や英国の歌曲を自ら歌ったほか、自作の詩に二宮玲子氏が作曲した組歌曲「旅のソネット」全7曲の初演をプロデュースした。日本の美を映し出す歌心について聞いた。
■歌の詩を書きながら自らもバリトンとして歌う
林氏は「謹訳 源氏物語(全10巻)」をはじめ国文学や書誌学の著書で知られる一方、英国滞在の経験から「イギリスはおいしい」などの随筆でも人気が高い。小説の執筆や英国作品の翻訳も含め作家活動は多岐にわたる。その一方で同氏にとって重要な活動領域の一つが音楽だ。東京芸術大学の助教授を務めた頃から歌曲や合唱曲の詩を書き、「あんこまパン」や「夢の意味」などスタンダードになった歌も多い。43歳から声楽を始め、バリトンとして歌手活動にも取り組む。
11月29日、紀尾井町サロンホール(東京・千代田)で開かれた「デュオ・ドットラーレ演奏会」。金沢市の医師で声楽家の北山吉明氏と結成したデュオを中心としたリサイタルだ。「北山先生と知り合いになったのはほんの3年ほど前。私が詩を書いた『あんこまパン』を北山先生が歌うことになり、私に手紙をくれたのが縁でお会いし、突如としてデュエットになった」と林氏はデュオ結成の経緯を語る。北山氏が中音域のテノール、林氏が低音域のバリトンだ。「僕も林先生も忙しいけれど、歌の時間だけは何としても確保して楽しむ」と北山氏は話す。
この夜のリサイタルのテーマは「歌で旅する」。永六輔氏の詩、中村八大氏の作曲による「遠くへ行きたい」のデュオから始まった。「みかんの花咲く丘」「琵琶湖周航の歌」「高原列車は行く」など旅にまつわる歌をデュオで次々と披露した。よく知られた唱歌や民謡、流行歌ばかりだが、作曲家の深見麻悠子氏が編曲した歌もあった。ピアノ伴奏は井谷佳代氏。いずれも林氏が助教授を務めた経験のある東京芸大の卒業生だ。井谷氏はこれまでも林氏の歌のピアノ伴奏をしている間柄だ。
さらに2人はそれぞれ独唱もした。林氏が歌った作品の一つがロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850~94年)作詩、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958年)作曲の連作歌曲「旅の歌」から「私はいずこにさすらうか」。スティーヴンソンは「宝島」「ジキル博士とハイド氏」などの冒険・怪奇小説の作者として知られるが、本質は詩人だった。ヴォーン・ウィリアムズはエルガーやディーリアス、ホルスト、ブリテンらと並び近現代英国を代表する作曲家だ。
■日本各地への旅を題材にした組歌曲を発表
英国の歌曲集の中でも傑作と称される「旅の歌」。「私はいずこにさすらうか」はどんな歌なのか。「故郷を捨て、家を捨てた男が故郷に帰ったはみたが、そこはもう廃家で、知っている人もいない。ボロボロの廃屋を見て、子供時代の幸せを思い出しながら、『もう俺はここには帰ってこない』という歌だ」と林氏はスティーヴンソンの詩を解説する。英文学の古典、エミリー・ブロンテの長編小説「嵐が丘」にも通じる荒涼とした風景が目に浮かんでくる。いかにも英国らしい独特の旅情を醸し出す歌曲だ。今回の映像は林氏がこの曲を歌う様子を捉えている。
林氏にとって今回は特別のリサイタルだった。自作の初演もあったからだ。林氏が作詩し、二宮玲子氏が作曲した組歌曲「旅のソネット」(全7曲)である。30分近い演奏時間を要する大作であるため、「当初は私自身が歌おうと思ったが、これはプロ中のプロに任せたほうがいいと判断した」と林氏は言う。駒田敏章氏のバリトン独唱、居福健太郎氏のピアノで新作初演した。2人ともドイツ歌曲の演奏に力を注ぐ若手の注目株だ。駒田氏は冒頭から厚く太い堂々たる声量で、詩のすべてが明瞭に聞き取れる歌唱を披露した。
「旅のソネット」について林氏に聞くと、「ひとつの青春歌である」と答えた。「春夏秋冬、北海道から長州(山口県)まで、若い頃の旅から最近の旅まで、行った先々でそこに住んでいる人がいて、新しい風景を発見する。そうした風景に自分の青春を投影してみる。そんな7つの詩だ」と説明する。念頭にあったのはシューベルトの連作歌曲集「冬の旅」やヴォーン・ウィリアムズの「旅の歌」、それに近現代日本を代表する作曲家の一人である信時潔(1887~1965年)の歌曲だったようだ。「独唱の組歌曲は7曲がちょうどいい。シューベルトの『冬の旅』のように24曲もあると大変だが、7曲くらいなら割と歌いやすいかもしれない。5曲だと少し物足りない。そう思って7曲にした」と語る。
全7曲について題材にした旅先を挙げると、1曲目の「旅立とう」は東京、2曲目「ひとつの時代」は新潟県糸魚川市、3曲目「行き止まる」は北海道の知床半島、「紫雲英田(げんげだ)の道を」が山口県、「花火」が長野県大町市、「和尚さん」は山形県酒田市、そして7曲目「八甲田」は青森県の八甲田山。現代日本の美しい風景に重ねて様々な叙情を映し出す。
■林望氏と二宮玲子氏の作詩作曲コンビによる美学
「そこには恋愛的な別れの情緒もあれば、過ぎ去ってしまった青春のかなしさ、未知の世界を見るワクワクした気持ちもある」。具体的な意味としてはそうだろう。しかし林氏が「一言でいえば」と強調したのは「やはり日本という国は美しい」ということだ。詩の言葉の美しい響きを含め、日本の美が本当のテーマと思われる。国文学者の美意識が現代日本の日常の風景から澄み切った詩情を見つけ出す。
作曲した二宮氏は「若々しいイメージの詩で、日本各地を新鮮な感性で書いている」と7つの詩を評し、「曲を書きやすかった」と振り返っている。「気軽に口ずさめる歌は歌曲の王道だと意識して作曲した」。二宮氏は松村禎三氏に作曲を、黛敏郎氏に管弦楽法を師事するなど、戦後日本の大物作曲家らの流れをくみ、日本を題材にした作品で定評がある。代表作にオペラ「きつねとお地蔵さん」、「ソプラノとオーケストラのためのルバイヤート交響曲」などがある。
林氏と二宮氏のコンビでは2014年、紫式部の「源氏物語」に題材を採ったオペラ「MABOROSI~オペラ源氏物語~」を甲府市のコラニー文化ホールで初演した。源氏物語の現代語訳を手掛けるなどこの古典文学作品に精通する林氏が作劇し、二宮氏が作曲した。彼女の曲作りとオーケストレーションは精彩と精巧をきわめる。「オペラ源氏物語」では比較的小規模のオーケストラを使い、ドビュッシー風の木管楽器の繊細な響き、簡潔で流れるような旋律美が全編に行きわたり、日本語による新たなオペラの可能性を示していた。今回の「旅のソネット」でも入念な音の配置がなされている。ピアニストの居福氏は「二宮さんのピアノのパートはシンプルに聞こえるが、弾くのは本当に難しい。緻密で細部まで凝っている」と話す。
■詩の言葉はすべて聞き取れなければならない
「旅のソネット」は7曲のいずれも聞きやすく親しみやすい曲調だ。しかしその中には列車が駆け抜けていくような騒音がピアノの複雑なリズムで表現され、つぶやくような分散和音の繰り返しが追憶のイメージを漂わすなど、精妙に凝った仕掛けが随所にある。「二宮さんの作曲は巧みで、一つの景色をずっと見ているような気分になる。オペラを書く人なので劇的な盛り上がりもある」と林氏は言う。ユーチューブに駒田氏と居福氏の演奏が公開されているので、パソコンやスマートフォンに「旅のソネット 全七曲」などのキーワードを打ち込んで検索すれば閲覧することができる。
「歌曲のリサイタルはオペラと違って字幕が出ない。だから詩の言葉をすべて聞き取れなければならない。そこで漢語はあまり使わず、できるだけ大和言葉で書く」と林氏は言う。「東京芸大で教え始めたのは43歳のとき。芸大の国語の先生というのは昔から歌曲の詩を作ることになっている。その伝統にのっとって合唱曲や歌曲、校歌や社歌も含め、ずいぶんたくさん詩を書いた」。作った歌の詩は100曲を優に超えているそうだ。
自ら歌手を経験しながら書き続けた歌の詩は、聴き手だけでなく作曲家や演奏家の心理も十分につかんだ技法を持つ。「作曲家のためにあまりウ段音を使わないこと。ウ段音が多いと歌いにくい曲ができるので極力使わない。フレーズの終わりが『ん』で終わる言葉も避ける。自分が歌った経験を生かしながら、様々な工夫をして歌いやすく作曲しやすい詩を書く」。こうした考えから、萩原朔太郎をはじめ著名な詩人の作品が必ずしも歌曲や合唱曲に向くわけでもない点も指摘する。やはり歌のための詩が必要になるという。
林氏と北山氏が歌った曲の中には名訳といわれる日本語による欧米の作品もあった。英語重視の風潮の中で忘れられがちな日本語の美しさ。日本語と英語で旅情を歌い、両言語の美しい響きを聴かせたこの日の林氏。古文の語彙も豊富な林氏の周りに、日本の音楽を創造し世界に発信しようと作曲家や演奏家が集まる。日本語から音楽が始まる。
(映像報道部シニアエディター 池上輝彦)
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